2009年07月08日
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最近、ドストエフスキーが静かなブームになっているらしい。物語が父殺しに始まり、「殺人」という、まさに現在の病根がテーマになっているからだろう。
「中央公論」7月号に亀山郁夫氏と平野啓一郎氏の対談、タイトル「ドストエフスキーと現代の殺人」が掲載されている。私も当時流に言って文学青年だったころドストエフスキーの世界にどっぷり填り、よく高校の1限目の授業に間にあわなかった。ドストエフスキーの物語には、読むこと自体を虜にする魅力が他の小説を圧倒していた記憶がある。
さて、対談の内容に移るが、平野啓一郎氏は、インターネットのもたらした人間関係(多様な人間の相互性)、「他者の問題」にスポットが当てられていて、世代を感じさせると指摘している。
現前した「他者の問題」と「殺人」は、今日的話題ではあるが、課題的に少し乖離させて論じる必要もあるので、ここでは問題を対談の目玉でもある、「殺人」に絞って述べることにする。
「殺人」については、「なにも殺さなくても」という殺人者以外の人間の理解不能性を素朴に私たちは抱いている。新訳に取り組んだ亀山郁夫氏は、ドストエフスキーの殺人物語の謎を「神の悪意」で構成していると指摘する。私はこの指摘を人間の「二重人格性」による、誰でも「殺人」を「殺人的」な元素を有していると読んでいる、従って、物語は常に悲劇的であると考えている。
「神の悪意」の範疇で「殺人」を捉えるということは、そこに人間は「救い」を招き入れること、「許す」概念を強要することを意味する。つまり近代国家が秩序を維持する為に必要としてきたものだ。
「他者との葛藤」を通じた自己認識論で「悪」を論じることは、抽象性を拡大することに他ならず、その本質を見失うというのが平野氏の感じだと私は読んだ。つまり、「神の悪意」で論じるよりも、ある種の秩序を設けず読むところに今日のドストエフスキーの妙味があるという説だ。
「神の悪意」についてもう少し解釈を加えるとすれば、他者との関係性の前に「自己への問い」を徹底するところにドストエフスキーの醍醐味があり、行き着くところがない不幸を個人が背負う生き様の悲劇を受け入れるという前提で「神の悪意」が意味をもつ。さらにこの前提から、今日の自己責任論は、社会(秩序)による個人の末梢(殺人)を是認している。
若干、対談において両氏のドストエフスキーの今日的受け入れられかたにニュアンスの違いを感じる。それは、単純なことではあるが、亀山氏が吐露している『六十歳になった私は、神という存在をどこか意識できるようになった。』(121頁)という言葉が率直に言い表している。
人間の人生には、自己の理解の及ばぬ事象が数多く圧し掛かってくるものだ。それに整理をつけて人生を歩んで往くためには、個々人の整理箱が必要になってくる。そして、整然としない様は、「神の範疇」に投げ込みその事象を容認する手段もあるということだ。そうしたもろもろの錯綜をより多く包含するところに私たちを惹き付けるエネルギーの宿った文学が発酵する。
平野氏は若い。『現在のように、何を信じていいのか、何に寄り添って生きていったらいいのかわからない時代には、ドストエフスキーの世界はインパクトをもっているんじゃないかと思います。』(121頁)と述べているが、この発言は少し眉唾物だと揶揄しておこう。俗な言い方だが、全くの不毛な時代の世代、個人には、文学は文字の羅列以外のなにものでもない。
最近、ドストエフスキーが静かなブームになっているらしい。物語が父殺しに始まり、「殺人」という、まさに現在の病根がテーマになっているからだろう。
「中央公論」7月号に亀山郁夫氏と平野啓一郎氏の対談、タイトル「ドストエフスキーと現代の殺人」が掲載されている。私も当時流に言って文学青年だったころドストエフスキーの世界にどっぷり填り、よく高校の1限目の授業に間にあわなかった。ドストエフスキーの物語には、読むこと自体を虜にする魅力が他の小説を圧倒していた記憶がある。
さて、対談の内容に移るが、平野啓一郎氏は、インターネットのもたらした人間関係(多様な人間の相互性)、「他者の問題」にスポットが当てられていて、世代を感じさせると指摘している。
現前した「他者の問題」と「殺人」は、今日的話題ではあるが、課題的に少し乖離させて論じる必要もあるので、ここでは問題を対談の目玉でもある、「殺人」に絞って述べることにする。
「殺人」については、「なにも殺さなくても」という殺人者以外の人間の理解不能性を素朴に私たちは抱いている。新訳に取り組んだ亀山郁夫氏は、ドストエフスキーの殺人物語の謎を「神の悪意」で構成していると指摘する。私はこの指摘を人間の「二重人格性」による、誰でも「殺人」を「殺人的」な元素を有していると読んでいる、従って、物語は常に悲劇的であると考えている。
「神の悪意」の範疇で「殺人」を捉えるということは、そこに人間は「救い」を招き入れること、「許す」概念を強要することを意味する。つまり近代国家が秩序を維持する為に必要としてきたものだ。
「他者との葛藤」を通じた自己認識論で「悪」を論じることは、抽象性を拡大することに他ならず、その本質を見失うというのが平野氏の感じだと私は読んだ。つまり、「神の悪意」で論じるよりも、ある種の秩序を設けず読むところに今日のドストエフスキーの妙味があるという説だ。
「神の悪意」についてもう少し解釈を加えるとすれば、他者との関係性の前に「自己への問い」を徹底するところにドストエフスキーの醍醐味があり、行き着くところがない不幸を個人が背負う生き様の悲劇を受け入れるという前提で「神の悪意」が意味をもつ。さらにこの前提から、今日の自己責任論は、社会(秩序)による個人の末梢(殺人)を是認している。
若干、対談において両氏のドストエフスキーの今日的受け入れられかたにニュアンスの違いを感じる。それは、単純なことではあるが、亀山氏が吐露している『六十歳になった私は、神という存在をどこか意識できるようになった。』(121頁)という言葉が率直に言い表している。
人間の人生には、自己の理解の及ばぬ事象が数多く圧し掛かってくるものだ。それに整理をつけて人生を歩んで往くためには、個々人の整理箱が必要になってくる。そして、整然としない様は、「神の範疇」に投げ込みその事象を容認する手段もあるということだ。そうしたもろもろの錯綜をより多く包含するところに私たちを惹き付けるエネルギーの宿った文学が発酵する。
平野氏は若い。『現在のように、何を信じていいのか、何に寄り添って生きていったらいいのかわからない時代には、ドストエフスキーの世界はインパクトをもっているんじゃないかと思います。』(121頁)と述べているが、この発言は少し眉唾物だと揶揄しておこう。俗な言い方だが、全くの不毛な時代の世代、個人には、文学は文字の羅列以外のなにものでもない。
時評
| 流動 2001 正論
2009年07月07日
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5日日曜日、久々に途中からのNHK「日曜討論」をみる。テーマは外交、安全保障戦略に関する識者の議論であった。その後、引き続き、田原総一郎氏の「サンデープロジェクト」、そして、昼食時に「そこまで言って委員会」をみるというテレビ漬けの半日を過ごした訳だが。
マスコミにとって今日的状況は、政権交代を賭けた総選挙がらみのニュースに尽きる訳だが、本日は先週から北朝鮮が連続でミサイルを日本海に打ち込んでいる、その挑発に対する防衛対処、対北朝鮮戦略一辺倒の番組編成になっていて驚いた。
断わっておくが、私は平和ボケで日常を安閑と過ごしているわけではない。日頃から日本の安全保障については、至って過敏に長期的日本の安全を考えて行動、言論の発信を謙虚に行っているつもりでいる。日曜日の各番組で議論されていた集団的自衛権についても、極めて明快な見解を当ブログで表明している。つまり、平和の維持については真剣に取り組んでいるのだ。その見解は、解釈改憲の立錐の余地もない真っ当なものだと常々自負している次第だ。
ところが、北朝鮮が6各国協議から離脱して、拉致問題の進展が見られない現況で、北朝鮮自体が明確な国家戦略を打ち出してきた昨今、どうも日本の解釈改憲派ならびに核保有論者は、ここにきて痺れを切らして強硬な痺れ鯰になっているようだ。
テレビ番組順にその実態を紹介してみる。もはや日本列島が仮想敵国を特定して今にも先制攻撃論の正当性を共有しているようで、寒気を覚える事態である。
先ず、日曜討論のサブタイトル、ナレーションは次のような文言になっている。
『弾道ミサイルや核開発で国際社会から非難が集まる北朝鮮。軍事費で世界第1、2位のアメリカと中国。緊張続く北東アジアで日本はどんな外交戦略をとるべきか専門家が討論。』
パネリストは岡本行夫氏(外交評論家)、国分良成氏(慶應義塾大学)、平岩俊司氏(静岡県立大学教授)、藤原帰一氏(東京大学教授)、渡辺利夫氏(拓殖大学学長)の5名で行われ、その議論の大枠的共通認識は、渡辺利夫氏の核武装論による軍事強化を直ちに進めるという強硬意見を別にして、他の4名は、集団的自衛権は解釈改憲で可能であるということになった。つまり、先制攻撃型集団的自衛権は駄目で、それ以外は認められるということだ。即ち全員、同盟国の被害に対しては報復処置をとってもよいと答えている。
「そこまで言って委員会」のテーマは、ゲストに櫻井よしこ氏(ジャーナリスト)を招いて「この国について憂いたい事は何ですか?」というものだ。何でも櫻井よしこ氏が「憂国」を出版したその内容を大いにPRする企画のようなもの。パネリストは三宅久之、金美齢、森本敏、西村眞悟、桂ざこば、勝谷誠彦、宮崎哲弥、村田晃嗣各氏。名前を見るだけで、改憲派の論客勢揃いというのが理解できる。事実、勝谷誠彦氏は、「今日の参加者は全員改憲派だ」と断言してくれているので理解が早い。当然、司会者のやしきたかじん氏、辛坊治郎氏(読売テレビ解説委員)は紹介するまでもない。
結論は、9条を改憲して世界に冠たる軍事大国として、できれば米国と肩を並べていつか見た夢の再来を考えているのだろう。従って、この番組では、集団的自衛権など議論になく、如何に核武装国家として、中国、北朝鮮に舐められないかの議論に尽きる。森本敏氏は冷静に残念がりながら、義憤を秘めて現況では日米同盟をより強固なものにするしかないという、一貫した主張であった。
もはや、この次元では、番組の内容云々の問題ではなく、全員改憲派を集合させて言いたい放題番組の制作を許す読売テレビとスポンサーに国賊的問題を指摘しなければならない。
さらに性質が悪いのは、田原総一郎氏の番組での誘導、即ち、次期政権政党に一番近い民主党に対して、中国、特に北朝鮮の挑発的軍事行動に対して、何ら安全保障戦略、対策がマニフェストに掲げられていないと強く批判、安心して政権を任せられないと断定するその司会ぶりである。これも公共電波を使っての民主党追い落とし戦略で番組として著しく品格を貶めている。
何れにせよ、テレビ番組は軍事大国化まっしぐらの一色体である。中国、北朝鮮に舐められてたまるかという、日本の近代化がアジアに対してとってきたスタンスそのものである。仮想敵国のミサイルでこうももろく崩れ散る日本人の精神構造は、神世の時代から天皇に対する誤認から覚めやらぬ心と同じ穴の狢である。
ところで話は保守論談の集団的自衛権についての極めつけを紹介しておく。「中央公論」7月号に櫻田淳氏が「日本核武装論、退場のとき」を寄稿している。オバマ核軍縮構想と先進国の核保有の目的が変質しつつある現況で、日本の核武装論は「被爆国」として「核拡散防止」との論理破綻をもち現実的な意味を持たないと指摘(多くの軍事専門家は、日本の核武装を非現実的だと断定している)。
短絡的で月並みな解答に尽きるが、櫻田淳氏の主張はこうだ。『率直にいえば、対朝「抑止」の実質性を担保する意味からすれば、急がれるべきは、ミサイル迎撃システムの信頼性の向上や通常兵力体系を機敏に運用できる態勢の構築である。具体的には、策源地攻撃能力の付与といった対応は、早急に考慮されるべきであろう。』(中央公論66頁)
つまり、先ず集団的自衛権を行使できる態勢で、通常兵力増強の為の予算計上を怠りなく継続することが必要、緻密な防衛体制と緩急自在の攻撃力の蓄積が大事だと指摘している。端的に言って、核は自国保有しないが、先進軍事大国を目指せということだ。ここで櫻田淳氏の9条棚上げ論は、軍備慎重派の櫻田氏にしては、反って危険な状況を生むとだけの指摘に留めておく。
このように保守論談の見解は、日本の安全保障論は、改憲による集団的自衛権とセットで本来の専守防衛論から敵基地攻撃論は当然のものとして認識されてきたということだ。この見解は大きな力によって、保守、右翼側の偏向した表明だともはや誰もが思わない状況をつくっている。常に吹聴されてきたことではあるが、戦争への突入は、私たちの知る自由が、全て一色に塗りつぶされた舞台装置によって組み込まれてしまうことである。
そして、何時もそうであるがそのスピード、実現は私たちの想像を超えており、私たちが、思い起こし、考えることすらできない生活空間において、軍備は速やかに進行する。
6日AFP通信は、日本政府が北朝鮮のミサイル攻撃などに備え、「政府、新型のミサイル防衛システムの導入を検討」していると伝えている。米軍が開発している「高高度広域防衛システム」というらしい。
私たちが、知ると同時にその脅威は現実のものとなっていくのが現在である。この展開を遅滞させるべき本来あった左翼的力量が今日完全に殺がれている。改めて、グローバリゼーションの魔力に翻弄され脅え慄く市民に変革のエネルギーは萎えてしまっている。
5日日曜日、久々に途中からのNHK「日曜討論」をみる。テーマは外交、安全保障戦略に関する識者の議論であった。その後、引き続き、田原総一郎氏の「サンデープロジェクト」、そして、昼食時に「そこまで言って委員会」をみるというテレビ漬けの半日を過ごした訳だが。
マスコミにとって今日的状況は、政権交代を賭けた総選挙がらみのニュースに尽きる訳だが、本日は先週から北朝鮮が連続でミサイルを日本海に打ち込んでいる、その挑発に対する防衛対処、対北朝鮮戦略一辺倒の番組編成になっていて驚いた。
断わっておくが、私は平和ボケで日常を安閑と過ごしているわけではない。日頃から日本の安全保障については、至って過敏に長期的日本の安全を考えて行動、言論の発信を謙虚に行っているつもりでいる。日曜日の各番組で議論されていた集団的自衛権についても、極めて明快な見解を当ブログで表明している。つまり、平和の維持については真剣に取り組んでいるのだ。その見解は、解釈改憲の立錐の余地もない真っ当なものだと常々自負している次第だ。
ところが、北朝鮮が6各国協議から離脱して、拉致問題の進展が見られない現況で、北朝鮮自体が明確な国家戦略を打ち出してきた昨今、どうも日本の解釈改憲派ならびに核保有論者は、ここにきて痺れを切らして強硬な痺れ鯰になっているようだ。
テレビ番組順にその実態を紹介してみる。もはや日本列島が仮想敵国を特定して今にも先制攻撃論の正当性を共有しているようで、寒気を覚える事態である。
先ず、日曜討論のサブタイトル、ナレーションは次のような文言になっている。
『弾道ミサイルや核開発で国際社会から非難が集まる北朝鮮。軍事費で世界第1、2位のアメリカと中国。緊張続く北東アジアで日本はどんな外交戦略をとるべきか専門家が討論。』
パネリストは岡本行夫氏(外交評論家)、国分良成氏(慶應義塾大学)、平岩俊司氏(静岡県立大学教授)、藤原帰一氏(東京大学教授)、渡辺利夫氏(拓殖大学学長)の5名で行われ、その議論の大枠的共通認識は、渡辺利夫氏の核武装論による軍事強化を直ちに進めるという強硬意見を別にして、他の4名は、集団的自衛権は解釈改憲で可能であるということになった。つまり、先制攻撃型集団的自衛権は駄目で、それ以外は認められるということだ。即ち全員、同盟国の被害に対しては報復処置をとってもよいと答えている。
「そこまで言って委員会」のテーマは、ゲストに櫻井よしこ氏(ジャーナリスト)を招いて「この国について憂いたい事は何ですか?」というものだ。何でも櫻井よしこ氏が「憂国」を出版したその内容を大いにPRする企画のようなもの。パネリストは三宅久之、金美齢、森本敏、西村眞悟、桂ざこば、勝谷誠彦、宮崎哲弥、村田晃嗣各氏。名前を見るだけで、改憲派の論客勢揃いというのが理解できる。事実、勝谷誠彦氏は、「今日の参加者は全員改憲派だ」と断言してくれているので理解が早い。当然、司会者のやしきたかじん氏、辛坊治郎氏(読売テレビ解説委員)は紹介するまでもない。
結論は、9条を改憲して世界に冠たる軍事大国として、できれば米国と肩を並べていつか見た夢の再来を考えているのだろう。従って、この番組では、集団的自衛権など議論になく、如何に核武装国家として、中国、北朝鮮に舐められないかの議論に尽きる。森本敏氏は冷静に残念がりながら、義憤を秘めて現況では日米同盟をより強固なものにするしかないという、一貫した主張であった。
もはや、この次元では、番組の内容云々の問題ではなく、全員改憲派を集合させて言いたい放題番組の制作を許す読売テレビとスポンサーに国賊的問題を指摘しなければならない。
さらに性質が悪いのは、田原総一郎氏の番組での誘導、即ち、次期政権政党に一番近い民主党に対して、中国、特に北朝鮮の挑発的軍事行動に対して、何ら安全保障戦略、対策がマニフェストに掲げられていないと強く批判、安心して政権を任せられないと断定するその司会ぶりである。これも公共電波を使っての民主党追い落とし戦略で番組として著しく品格を貶めている。
何れにせよ、テレビ番組は軍事大国化まっしぐらの一色体である。中国、北朝鮮に舐められてたまるかという、日本の近代化がアジアに対してとってきたスタンスそのものである。仮想敵国のミサイルでこうももろく崩れ散る日本人の精神構造は、神世の時代から天皇に対する誤認から覚めやらぬ心と同じ穴の狢である。
ところで話は保守論談の集団的自衛権についての極めつけを紹介しておく。「中央公論」7月号に櫻田淳氏が「日本核武装論、退場のとき」を寄稿している。オバマ核軍縮構想と先進国の核保有の目的が変質しつつある現況で、日本の核武装論は「被爆国」として「核拡散防止」との論理破綻をもち現実的な意味を持たないと指摘(多くの軍事専門家は、日本の核武装を非現実的だと断定している)。
短絡的で月並みな解答に尽きるが、櫻田淳氏の主張はこうだ。『率直にいえば、対朝「抑止」の実質性を担保する意味からすれば、急がれるべきは、ミサイル迎撃システムの信頼性の向上や通常兵力体系を機敏に運用できる態勢の構築である。具体的には、策源地攻撃能力の付与といった対応は、早急に考慮されるべきであろう。』(中央公論66頁)
つまり、先ず集団的自衛権を行使できる態勢で、通常兵力増強の為の予算計上を怠りなく継続することが必要、緻密な防衛体制と緩急自在の攻撃力の蓄積が大事だと指摘している。端的に言って、核は自国保有しないが、先進軍事大国を目指せということだ。ここで櫻田淳氏の9条棚上げ論は、軍備慎重派の櫻田氏にしては、反って危険な状況を生むとだけの指摘に留めておく。
このように保守論談の見解は、日本の安全保障論は、改憲による集団的自衛権とセットで本来の専守防衛論から敵基地攻撃論は当然のものとして認識されてきたということだ。この見解は大きな力によって、保守、右翼側の偏向した表明だともはや誰もが思わない状況をつくっている。常に吹聴されてきたことではあるが、戦争への突入は、私たちの知る自由が、全て一色に塗りつぶされた舞台装置によって組み込まれてしまうことである。
そして、何時もそうであるがそのスピード、実現は私たちの想像を超えており、私たちが、思い起こし、考えることすらできない生活空間において、軍備は速やかに進行する。
6日AFP通信は、日本政府が北朝鮮のミサイル攻撃などに備え、「政府、新型のミサイル防衛システムの導入を検討」していると伝えている。米軍が開発している「高高度広域防衛システム」というらしい。
私たちが、知ると同時にその脅威は現実のものとなっていくのが現在である。この展開を遅滞させるべき本来あった左翼的力量が今日完全に殺がれている。改めて、グローバリゼーションの魔力に翻弄され脅え慄く市民に変革のエネルギーは萎えてしまっている。
2009年07月05日
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2008年7月、日本で開催されたG8サミット前に市民団体、学生運動などが抗議行動を実践、それから1年が経過している。今の状況では過去の話になり、その議題締結案も空手形となりつつある。幸いかどうかは別として、開催日では、全くと言ってよいほど混乱がなく、政府は先進国の厳重体制の徹底ぶりを各国にアピールすることに成功、警察ならびに陸、海、空軍総出動の成果を見せつけた。環境と貧困を語ることに莫大(千億単位)な費用をかけただけの慰めを一部の関係者が享受した。
それとは反対に、G8サミット開催に反対する声は、ほとんどマスコミからは聞かれず、当日、一部テレビで単純紹介されただけであった。たまたま一部ネットニュースに関心のある方は、サミット前日(5月28日、29日)法政大学で学生が「サミット粉砕」を掲げて抗議活動を行った際、38名の参加学生が逮捕されたというニュースを知るのが関の山で、おおよそ世間の関心ごとにはならなかった。そして、その後はマスコミに事件を葬られている。
ここ2,3年前から抗議活動中での1人や2人の逮捕劇は、日常茶飯事になってしまい、逮捕劇自体は驚くべきことではなくなっていたが、校内での一挙に38名の大量逮捕となると少しは話が別だと考えるが、昨今はそうではないようである。事件の詳しい経緯が判らぬまま、これも過去のニュースでしかなくなった。校舎内での38名は驚いてよい数である。しかし、今日という日常は、瞬間、瞬間での出会い頭記憶でしかなく、直ぐに記憶は別の事件に移ってしまう。
前置きが長くなってしまったが、過去の記憶としていた法政大学の学生運動に対するすさまじい弾圧、逮捕劇が行われているという投稿をある平和運動団体のMLで読んだ。それによると、この3年間で延べ102名の学生が逮捕され、さらに、1926年に成立した「暴力行為等処罰ニ関スル法律」によって8人が起訴、投獄されていると書かれていた。何とも不思議な違和感を覚える投稿文である。
投稿文には、経緯と現況、公判の予定などが書かれたサイトの紹介が掲載されている。ここで拙い文章での説明をするよりも、録画を観る方がその実態がよく理解できる。さらにその他、ネット検索での情報サイトも掲げておくので参考に覘いてみてほしい。本来もっとも自由であるべき校庭での学校側の弾圧の詳細が理解できる。
何時から日本も暗黒の弾圧国家社会になってしまったのだろうか。特にここのところ頻繁に「国策捜査」という国家権力を背景にした事件、逮捕劇をみることが多い。監視社会が喧騒され、安全、安心のための特効薬だという認識を受け入れてやり過ごしての結果が、問答無用の弾圧社会に変貌していたと述べることは容易だが。案外早くから政、官、業、電、学の櫓が出来上がっていたと視る方が納得できるのではないか。つまり、「学」の領域次元で徹底的に「自由」を粉々にして社会に送り込む算術が仕組まれていたというわけだ。その為の見せしめ効果を最大限発揮しているのが、今日の法政大学ということだろう。
不条理の打開に臨み、平等の判断を取り戻す為に、自由を行使する、その実践に対する報いが余りにも大きく若者の背にのしかかる現実は、60年、70年安保当時と今の時代も同じである。自由の代償は大きい。しかし、それを行使しなければ何も始まらない。解体された人格で生きることを善としない、その決意があってこそ全ての方向に展望らしさが見え隠れするものだ。
参考・関連サイト
逮捕者84名!法政大学で何が起きているのか〜日本外国特派員協会で会見(インターネット新聞JanJan)
法政大学文化連盟
3・14法大弾圧を許さない法大生の会
法大弾圧救援会
A&U大阪
法政大学学生運動の一斉検挙
2008年7月、日本で開催されたG8サミット前に市民団体、学生運動などが抗議行動を実践、それから1年が経過している。今の状況では過去の話になり、その議題締結案も空手形となりつつある。幸いかどうかは別として、開催日では、全くと言ってよいほど混乱がなく、政府は先進国の厳重体制の徹底ぶりを各国にアピールすることに成功、警察ならびに陸、海、空軍総出動の成果を見せつけた。環境と貧困を語ることに莫大(千億単位)な費用をかけただけの慰めを一部の関係者が享受した。
それとは反対に、G8サミット開催に反対する声は、ほとんどマスコミからは聞かれず、当日、一部テレビで単純紹介されただけであった。たまたま一部ネットニュースに関心のある方は、サミット前日(5月28日、29日)法政大学で学生が「サミット粉砕」を掲げて抗議活動を行った際、38名の参加学生が逮捕されたというニュースを知るのが関の山で、おおよそ世間の関心ごとにはならなかった。そして、その後はマスコミに事件を葬られている。
ここ2,3年前から抗議活動中での1人や2人の逮捕劇は、日常茶飯事になってしまい、逮捕劇自体は驚くべきことではなくなっていたが、校内での一挙に38名の大量逮捕となると少しは話が別だと考えるが、昨今はそうではないようである。事件の詳しい経緯が判らぬまま、これも過去のニュースでしかなくなった。校舎内での38名は驚いてよい数である。しかし、今日という日常は、瞬間、瞬間での出会い頭記憶でしかなく、直ぐに記憶は別の事件に移ってしまう。
前置きが長くなってしまったが、過去の記憶としていた法政大学の学生運動に対するすさまじい弾圧、逮捕劇が行われているという投稿をある平和運動団体のMLで読んだ。それによると、この3年間で延べ102名の学生が逮捕され、さらに、1926年に成立した「暴力行為等処罰ニ関スル法律」によって8人が起訴、投獄されていると書かれていた。何とも不思議な違和感を覚える投稿文である。
投稿文には、経緯と現況、公判の予定などが書かれたサイトの紹介が掲載されている。ここで拙い文章での説明をするよりも、録画を観る方がその実態がよく理解できる。さらにその他、ネット検索での情報サイトも掲げておくので参考に覘いてみてほしい。本来もっとも自由であるべき校庭での学校側の弾圧の詳細が理解できる。
何時から日本も暗黒の弾圧国家社会になってしまったのだろうか。特にここのところ頻繁に「国策捜査」という国家権力を背景にした事件、逮捕劇をみることが多い。監視社会が喧騒され、安全、安心のための特効薬だという認識を受け入れてやり過ごしての結果が、問答無用の弾圧社会に変貌していたと述べることは容易だが。案外早くから政、官、業、電、学の櫓が出来上がっていたと視る方が納得できるのではないか。つまり、「学」の領域次元で徹底的に「自由」を粉々にして社会に送り込む算術が仕組まれていたというわけだ。その為の見せしめ効果を最大限発揮しているのが、今日の法政大学ということだろう。
不条理の打開に臨み、平等の判断を取り戻す為に、自由を行使する、その実践に対する報いが余りにも大きく若者の背にのしかかる現実は、60年、70年安保当時と今の時代も同じである。自由の代償は大きい。しかし、それを行使しなければ何も始まらない。解体された人格で生きることを善としない、その決意があってこそ全ての方向に展望らしさが見え隠れするものだ。
参考・関連サイト
逮捕者84名!法政大学で何が起きているのか〜日本外国特派員協会で会見(インターネット新聞JanJan)
法政大学文化連盟
3・14法大弾圧を許さない法大生の会
法大弾圧救援会
A&U大阪
法政大学学生運動の一斉検挙
2009年07月03日
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山崎行太郎氏は6月20日ブログ「毒蛇山荘日記」で相変わらずの西部邁批判を展開している。以前にも指摘したが余程の怨恨的関係にあるとしか考えられない獰猛さである。
歳月に関係なく確かな検証、総括の作業は必要なことである。目まぐるしく世界情勢が渦巻く過程で、常に立ち位置を確認する作業はそれなりの労苦を要求されるが実践上大事な営みである。今日、誰が安倍晋三前首相の突然辞任の無責任さを思い出し、この性癖が実は自民党の最近の傾向になっていることを指摘して(山崎氏の世襲亡国論)いるかを見た場合、心もとないというのが現実であって、その意味で山崎氏の糾弾は評価されるべきものである。
ただし、こと特記的に西部邁氏を血祭りに上げて鬱憤を払う姿勢にはいささか疑問を投げかけたくなる。転向者として攻め続けるのも限度がある。少なくとも60年安保を学生で過ごし、その後、高度成長と共に左翼が保守的に生っていったという個人は、国民総じて万博、オリンピックの勢いに乗ったそれぞれの生きざまを演出したことは事実であり、その間に山崎氏が嘆く保守の衰退、空洞化現象が、学術的にマルクス経済学なり主義という思想の解体とつながっていたことも事実である。
しかしながら、60年、70年安保の左翼にその背因を負んぶさせるというのはいささか的を射た指摘ではない。そして、原理主義的小林秀雄保守論を掲げ力んで西部邁氏を亜流思想家の筆頭に祭り上げて攻め続けるのも如何なものかと思う。
世襲政治家、亜流思想家、亜流ジャーナリスト、流行思想家など、山崎氏の説明する『「亜流思想」とは、自分の力で現実に対面し、自分の手で現実・存在と格闘しないところの借り物の思想という意味である。従って、亜流思想家は、自分の手で、自分の力で、思想や作品というものを生み出すことをしない』(6月20日ブログ)、確かに指摘に類する電波芸者的文化人、知識人が多く闊歩しているのは現実である。しかし、その代名詞を西部邁氏に被せても問題の糸口にもならないし、結果的には山崎氏自身の墓穴を掘る結果を招かないとも限らない。
つまり、ブログに書かれている、『私は、安倍晋三という世襲政治家の「脆弱性」と「危険性」を見抜けなかった、これらの思想家や政治評論家たちの思想的レベルにも問題があると思ったものである。西部邁や中西輝政、櫻井よしこ等は、習い覚えたばかりの保守的な政治思想を叫びたてる安倍晋三という若年の世襲政治家に保守再建なるものを「期待」し、首相になるとその保守的政策を「絶賛」し、』(6月20日)とあるように、今日の保守論壇、保守ジャーナリズムを代表・象徴する西部邁や中西輝政、櫻井よしこ諸氏を糾弾しているのだ。とりわけ、西部邁氏については、(平成19年10月号「正論」「民衆政治の大舞台と化した日本列島」)での言説を批判している。さらに、十数年前の栗本慎一郎氏との対談、小沢一郎氏に対する評価など、時代を超えた評価判断の違いに対して徹底的に糾弾している、現在もその姿勢は一貫している。
どうやら原理主義保守主義者でなければ駄目だと宣言している言説に終始しているようである。あたかも何もしない存在論、話は突然になるが、ブログの冒頭に出てくるハイデッガーの「存在と時間」の解釈から断定している嫌いがあるように考えられるが、ハイデッガーの「存在」とは、原理主義的固定沈降型時代乖離現象そのものであるという理解に基づいて、展望的でない政権擁護しか成立しない思想「存在論」に陥る危険性がある。敢えて誤解を恐れずに言わせてもらえば、山崎氏自身がその領域でしか「存在」していない、つまり、「墓穴を掘る」結果を招きかねない危険性を抱擁しているということだ。
確かに指摘のある、(平成19年10月号「正論」「民衆政治の大舞台と化した日本列島」)での西部邁氏の安倍晋三元首相擁護見解は頂けないし、糾弾に値する見解ではある。しかし、それと同時に展開されている愚衆政治論は傾聴に値するものだ。この分析なくして政治の展望論もまた語れない。現実に第二の劇場型選挙の舞台が整えられようとしているではないか。それも、民衆の絶大なる後押しを受けて正に権力側にハーモニーして「お茶の間」を独占している、さらに占領しつつある現況は、「民衆政治の大舞台と化した日本列島」での「第一権力と化したお茶の間ワイドショウ」での指摘そのものである。
『「庶民の抱懐する伝統の精神」としての「輿論」ではなく、「大衆の弄ぶ流行の気分」としての「世論」に、立法、行政、そして司法の三権が追随する、それが民主主義である。したがって、第一権力は「世論を差配する」ものとしてのマスメディアに決まっている。』(「民衆政治の大舞台と化した日本列島」53頁)、正に山崎氏が名指し命名している「場末のエロ・ボケ知事そのまんま東」本人が主役として登場する勢いである。こと日本の選挙に限らず、柳の下に泥鰌は相変わらずということもあり得る。また、今もこれが戦争への道につながっていることは歴史が証明している。
最後に山崎氏の発言で気になる見解があるので忠言しておきたいと思う。戦後社会の半世紀に及ぶ自民党政治は、山崎氏の論調から穿った見方をすれば、亜流政治に尽きてしまったといえる。辛うじて政権を維持してきたのは、国民を「豊かさ」というオブラートで何重にも施しての政治、詰まる所、亜流政治でしかなかったということだ。従って、『自民党の「死と再生」の方を切望する次第である。』(6月30日ブログ)と自民党に期待すること自体が、山崎氏の自己解体を招いているといえる。自民党は「再生」などしない、よしんば、権力を持っていたとしても、それは人間の欲望の化身としての仮の統治機構に過ぎず、常に亜流政党という目眩まし政治政党の烙印がついてまわる。
山崎行太郎氏は6月20日ブログ「毒蛇山荘日記」で相変わらずの西部邁批判を展開している。以前にも指摘したが余程の怨恨的関係にあるとしか考えられない獰猛さである。
歳月に関係なく確かな検証、総括の作業は必要なことである。目まぐるしく世界情勢が渦巻く過程で、常に立ち位置を確認する作業はそれなりの労苦を要求されるが実践上大事な営みである。今日、誰が安倍晋三前首相の突然辞任の無責任さを思い出し、この性癖が実は自民党の最近の傾向になっていることを指摘して(山崎氏の世襲亡国論)いるかを見た場合、心もとないというのが現実であって、その意味で山崎氏の糾弾は評価されるべきものである。
ただし、こと特記的に西部邁氏を血祭りに上げて鬱憤を払う姿勢にはいささか疑問を投げかけたくなる。転向者として攻め続けるのも限度がある。少なくとも60年安保を学生で過ごし、その後、高度成長と共に左翼が保守的に生っていったという個人は、国民総じて万博、オリンピックの勢いに乗ったそれぞれの生きざまを演出したことは事実であり、その間に山崎氏が嘆く保守の衰退、空洞化現象が、学術的にマルクス経済学なり主義という思想の解体とつながっていたことも事実である。
しかしながら、60年、70年安保の左翼にその背因を負んぶさせるというのはいささか的を射た指摘ではない。そして、原理主義的小林秀雄保守論を掲げ力んで西部邁氏を亜流思想家の筆頭に祭り上げて攻め続けるのも如何なものかと思う。
世襲政治家、亜流思想家、亜流ジャーナリスト、流行思想家など、山崎氏の説明する『「亜流思想」とは、自分の力で現実に対面し、自分の手で現実・存在と格闘しないところの借り物の思想という意味である。従って、亜流思想家は、自分の手で、自分の力で、思想や作品というものを生み出すことをしない』(6月20日ブログ)、確かに指摘に類する電波芸者的文化人、知識人が多く闊歩しているのは現実である。しかし、その代名詞を西部邁氏に被せても問題の糸口にもならないし、結果的には山崎氏自身の墓穴を掘る結果を招かないとも限らない。
つまり、ブログに書かれている、『私は、安倍晋三という世襲政治家の「脆弱性」と「危険性」を見抜けなかった、これらの思想家や政治評論家たちの思想的レベルにも問題があると思ったものである。西部邁や中西輝政、櫻井よしこ等は、習い覚えたばかりの保守的な政治思想を叫びたてる安倍晋三という若年の世襲政治家に保守再建なるものを「期待」し、首相になるとその保守的政策を「絶賛」し、』(6月20日)とあるように、今日の保守論壇、保守ジャーナリズムを代表・象徴する西部邁や中西輝政、櫻井よしこ諸氏を糾弾しているのだ。とりわけ、西部邁氏については、(平成19年10月号「正論」「民衆政治の大舞台と化した日本列島」)での言説を批判している。さらに、十数年前の栗本慎一郎氏との対談、小沢一郎氏に対する評価など、時代を超えた評価判断の違いに対して徹底的に糾弾している、現在もその姿勢は一貫している。
どうやら原理主義保守主義者でなければ駄目だと宣言している言説に終始しているようである。あたかも何もしない存在論、話は突然になるが、ブログの冒頭に出てくるハイデッガーの「存在と時間」の解釈から断定している嫌いがあるように考えられるが、ハイデッガーの「存在」とは、原理主義的固定沈降型時代乖離現象そのものであるという理解に基づいて、展望的でない政権擁護しか成立しない思想「存在論」に陥る危険性がある。敢えて誤解を恐れずに言わせてもらえば、山崎氏自身がその領域でしか「存在」していない、つまり、「墓穴を掘る」結果を招きかねない危険性を抱擁しているということだ。
確かに指摘のある、(平成19年10月号「正論」「民衆政治の大舞台と化した日本列島」)での西部邁氏の安倍晋三元首相擁護見解は頂けないし、糾弾に値する見解ではある。しかし、それと同時に展開されている愚衆政治論は傾聴に値するものだ。この分析なくして政治の展望論もまた語れない。現実に第二の劇場型選挙の舞台が整えられようとしているではないか。それも、民衆の絶大なる後押しを受けて正に権力側にハーモニーして「お茶の間」を独占している、さらに占領しつつある現況は、「民衆政治の大舞台と化した日本列島」での「第一権力と化したお茶の間ワイドショウ」での指摘そのものである。
『「庶民の抱懐する伝統の精神」としての「輿論」ではなく、「大衆の弄ぶ流行の気分」としての「世論」に、立法、行政、そして司法の三権が追随する、それが民主主義である。したがって、第一権力は「世論を差配する」ものとしてのマスメディアに決まっている。』(「民衆政治の大舞台と化した日本列島」53頁)、正に山崎氏が名指し命名している「場末のエロ・ボケ知事そのまんま東」本人が主役として登場する勢いである。こと日本の選挙に限らず、柳の下に泥鰌は相変わらずということもあり得る。また、今もこれが戦争への道につながっていることは歴史が証明している。
最後に山崎氏の発言で気になる見解があるので忠言しておきたいと思う。戦後社会の半世紀に及ぶ自民党政治は、山崎氏の論調から穿った見方をすれば、亜流政治に尽きてしまったといえる。辛うじて政権を維持してきたのは、国民を「豊かさ」というオブラートで何重にも施しての政治、詰まる所、亜流政治でしかなかったということだ。従って、『自民党の「死と再生」の方を切望する次第である。』(6月30日ブログ)と自民党に期待すること自体が、山崎氏の自己解体を招いているといえる。自民党は「再生」などしない、よしんば、権力を持っていたとしても、それは人間の欲望の化身としての仮の統治機構に過ぎず、常に亜流政党という目眩まし政治政党の烙印がついてまわる。
時評
| 流動 2001 正論
2009年07月02日
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ご存知のように花岡信昭氏は、安全保障に関しては、時代錯誤も甚だしい政治音痴な極右判断の持ち主だが、本職の政治記者としては、長年の経験上からそれなりの見通し判断力に説得力があるようだ。
日経BPネット・時評コラム連載に花岡氏は「我々の国家はどこに向かっているのか」6月18日、サブタイトル「現実味を増してきた「7月2日解散」説」を投稿している。マスコミで総裁選前倒しが喧騒されて、相も変らぬ総選挙談議に飽食気味で、もしかすると国民はどちらでもよいと考えているのではないかと確信するに至ってきているのだが。
私は、昨年の麻生首相就任後から、麻生氏の性格から衆院議員の任期満了日の9月10日解散という最悪のシナリオを予見しているのだが、ここまでくればその可能性も段々と濃くなるように思えてくる。元オリピック選手としてのアキラメナイ精神を最大限発揮してビリであろうと、引きずり降ろされの状況であろうと、とにかく終了の合図がなるまではやりぬくという日本人気資を最大限発揮するのではないか。民族性がこれほど国民を愚弄する結果になるパラドックスの結果は、ブラックジョークでは済まされない悪夢に等しい。
しかし、政、官、民一体の巨悪事件に展開するかもの可能性がある障害者団体向け郵便料金割引制度、障害者団体「白山会」(旧「凛の会」)の事件の展開如何では、自民党とその周辺による最後の徹底抗戦が繰り広げられるだろう。「民主党お前もか」雰囲気で選挙に突入することを密かに画策、窺っているかもしれない。
ところで「2日解散説」も何事もなく、時期的にも意味不明な2閣僚の人事発表が行われただけで、いよいよ何もできない麻生首相の孤独な迷走が続くことになっているが、麻生降ろしの動きにそれほど過敏に反応しない感性の持ち主だけに現閣僚での突入派、森氏、細田幹事長などは反って安堵しているように見受けられる。
つまり、総理の専権事項、解散権も人事権ももはや総理にはない、後は退陣しかない、それは重鎮森氏を中心とした最大派閥の手のひらにあることの確信を意味する。要するに、選挙後の党内の力関係保持が優先しているのだ。
後は、麻生首相にどの時期に決断させるかに尽きる訳だが、相変わらず献金問題の泥仕合に持ち込んだ、自民党も民主党もどちらもどちらだという選挙民へのあきらめ機運をつくる世論操作に全力を注ぐものとみられる。格好の敵失になるかは別として、民主党の前代表と引き続きの鳩山代表献金問題は好材料には違いない。相も変わらず、「自民が鳩山代表の招致要求=民主は拒否−虚偽記載問題」という具合に両党の敵失合戦が続く訳だ。そして、国民が政治不信を高め、関心を低下させたところで選挙に打って出ると推測される。というのも、麻生首相自身のぎりぎりまでの続投と細田幹事長側の政治性質が似ているからだ。
ご存知のように花岡信昭氏は、安全保障に関しては、時代錯誤も甚だしい政治音痴な極右判断の持ち主だが、本職の政治記者としては、長年の経験上からそれなりの見通し判断力に説得力があるようだ。
日経BPネット・時評コラム連載に花岡氏は「我々の国家はどこに向かっているのか」6月18日、サブタイトル「現実味を増してきた「7月2日解散」説」を投稿している。マスコミで総裁選前倒しが喧騒されて、相も変らぬ総選挙談議に飽食気味で、もしかすると国民はどちらでもよいと考えているのではないかと確信するに至ってきているのだが。
私は、昨年の麻生首相就任後から、麻生氏の性格から衆院議員の任期満了日の9月10日解散という最悪のシナリオを予見しているのだが、ここまでくればその可能性も段々と濃くなるように思えてくる。元オリピック選手としてのアキラメナイ精神を最大限発揮してビリであろうと、引きずり降ろされの状況であろうと、とにかく終了の合図がなるまではやりぬくという日本人気資を最大限発揮するのではないか。民族性がこれほど国民を愚弄する結果になるパラドックスの結果は、ブラックジョークでは済まされない悪夢に等しい。
しかし、政、官、民一体の巨悪事件に展開するかもの可能性がある障害者団体向け郵便料金割引制度、障害者団体「白山会」(旧「凛の会」)の事件の展開如何では、自民党とその周辺による最後の徹底抗戦が繰り広げられるだろう。「民主党お前もか」雰囲気で選挙に突入することを密かに画策、窺っているかもしれない。
ところで「2日解散説」も何事もなく、時期的にも意味不明な2閣僚の人事発表が行われただけで、いよいよ何もできない麻生首相の孤独な迷走が続くことになっているが、麻生降ろしの動きにそれほど過敏に反応しない感性の持ち主だけに現閣僚での突入派、森氏、細田幹事長などは反って安堵しているように見受けられる。
つまり、総理の専権事項、解散権も人事権ももはや総理にはない、後は退陣しかない、それは重鎮森氏を中心とした最大派閥の手のひらにあることの確信を意味する。要するに、選挙後の党内の力関係保持が優先しているのだ。
後は、麻生首相にどの時期に決断させるかに尽きる訳だが、相変わらず献金問題の泥仕合に持ち込んだ、自民党も民主党もどちらもどちらだという選挙民へのあきらめ機運をつくる世論操作に全力を注ぐものとみられる。格好の敵失になるかは別として、民主党の前代表と引き続きの鳩山代表献金問題は好材料には違いない。相も変わらず、「自民が鳩山代表の招致要求=民主は拒否−虚偽記載問題」という具合に両党の敵失合戦が続く訳だ。そして、国民が政治不信を高め、関心を低下させたところで選挙に打って出ると推測される。というのも、麻生首相自身のぎりぎりまでの続投と細田幹事長側の政治性質が似ているからだ。
時評
| 流動 2001 正論
2009年07月01日
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
たまたま、ブログ「駒ヶ根に想う 駒ヶ根から社会を理解する」のタイトル「広島の平和式典に田母神が挑戦状」を読むことになった。
ざっくりと感じたことは、平和への願いが素朴に聞こえてくることだ。下記に中段からの文章を掲載する。
《8月6日の講演について田母神氏は今月20日、中国新聞の取材に対し「核兵器は絶対に使われることのない兵器だが、持つか持たないかで国際的な発言力が全然違う。日本のために核武装するべきだと考えており、講演ではそこに触れることになると思う」と話したと伝えられている。
広島では「ヒロシマの平和を疑う」と題して講演する予定。
これだけなら戦争バカの軍人が核武装を扇動するカルト集会だってことでスルーするはずですが、うちの家族がかかわることになったので放っておけません。
8月6日には、うちの次女が駒ヶ根市の中学生の代表の一人として広島で行われる「平和記念式典」に派遣されることになったからです。
核兵器武装を謳う元自衛官トップの講演が、平和の祭典を台無しにしてしまう。
軍事オタクたちが自己満足に浸っているのは構わないが、国際的に注目される非核の式典に照準を合わせて核武装を論じるのは、日本国民への挑戦状だ。
自分の娘が参加している現場に挑戦状が叩きつけられることには我慢がならない。
こういう危険分子をトップに据えた自衛隊の内情は、非常に危ういものになっていると思います。
戦争を賛美する好戦的な集団に自衛隊がなっていることの表れかもしれません。
自民党の軍事政策を忠実に表現するこれらの正直者の存在が、自民党政治の終焉にさらなる力添えをすることになる。
鳩山・民主党代表の謳う「友愛」が世界平和をもたらすための日本の政策へ大きな力を与えてほしい。
戦争を武力で鎮圧するというこれまでの考え方から、戦争が発生する要因を地球上から取り除いていく平和外交へ民主党によって日本のかじ取りが変化していくことを期待している。
やっぱり最後は選挙の話になりますね。》
そして、直ぐに30日産経新聞の記事を思い出してしまった。【異論暴論】正論8月号 「集団的自衛権」がカギ 民主党政権で日本は守れますか
民主党の安全保障担当の長島昭久副幹事長が、集団的自衛権行使を強調、安全保障の空洞化を指摘している記事だ。
当ブログでも再三主張していることだが、政権交代の必要性が切望されるが、民主党に政権移譲が実現したとしても、こと安全保障に関しては、ほぼ自民党と何ら方向性に変更があるわけでなく、反って憲法改正、国際協調による自衛隊派遣の拡大が急ピッチに進むことは必至である。つまり、戦後初めての戦闘による死者が出るという現実に私たちは立ち会うことになる。
たまたま、ブログ「駒ヶ根に想う 駒ヶ根から社会を理解する」のタイトル「広島の平和式典に田母神が挑戦状」を読むことになった。
ざっくりと感じたことは、平和への願いが素朴に聞こえてくることだ。下記に中段からの文章を掲載する。
《8月6日の講演について田母神氏は今月20日、中国新聞の取材に対し「核兵器は絶対に使われることのない兵器だが、持つか持たないかで国際的な発言力が全然違う。日本のために核武装するべきだと考えており、講演ではそこに触れることになると思う」と話したと伝えられている。
広島では「ヒロシマの平和を疑う」と題して講演する予定。
これだけなら戦争バカの軍人が核武装を扇動するカルト集会だってことでスルーするはずですが、うちの家族がかかわることになったので放っておけません。
8月6日には、うちの次女が駒ヶ根市の中学生の代表の一人として広島で行われる「平和記念式典」に派遣されることになったからです。
核兵器武装を謳う元自衛官トップの講演が、平和の祭典を台無しにしてしまう。
軍事オタクたちが自己満足に浸っているのは構わないが、国際的に注目される非核の式典に照準を合わせて核武装を論じるのは、日本国民への挑戦状だ。
自分の娘が参加している現場に挑戦状が叩きつけられることには我慢がならない。
こういう危険分子をトップに据えた自衛隊の内情は、非常に危ういものになっていると思います。
戦争を賛美する好戦的な集団に自衛隊がなっていることの表れかもしれません。
自民党の軍事政策を忠実に表現するこれらの正直者の存在が、自民党政治の終焉にさらなる力添えをすることになる。
鳩山・民主党代表の謳う「友愛」が世界平和をもたらすための日本の政策へ大きな力を与えてほしい。
戦争を武力で鎮圧するというこれまでの考え方から、戦争が発生する要因を地球上から取り除いていく平和外交へ民主党によって日本のかじ取りが変化していくことを期待している。
やっぱり最後は選挙の話になりますね。》
そして、直ぐに30日産経新聞の記事を思い出してしまった。【異論暴論】正論8月号 「集団的自衛権」がカギ 民主党政権で日本は守れますか
民主党の安全保障担当の長島昭久副幹事長が、集団的自衛権行使を強調、安全保障の空洞化を指摘している記事だ。
当ブログでも再三主張していることだが、政権交代の必要性が切望されるが、民主党に政権移譲が実現したとしても、こと安全保障に関しては、ほぼ自民党と何ら方向性に変更があるわけでなく、反って憲法改正、国際協調による自衛隊派遣の拡大が急ピッチに進むことは必至である。つまり、戦後初めての戦闘による死者が出るという現実に私たちは立ち会うことになる。
2009年06月18日
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加地伸行氏、現役引退後に保守論壇で気勢を上げている中国文学専門家、最近特に産経新聞等で持論を力説している。引退後に保守、反動的発言を強調する御仁が最近、顕著に増えてきている。社会が保守安定期として熟してきている証左でもあると考えるが、個人的には頑迷な保守思想を「正しかった」と自己了解しての結果から発言、行動が活発化しているとも考えられる。つまり、みっともない所業の一つと言える類だ。
月刊誌「正論」7月号に加地伸行氏は、最近、保守、右翼陣営の話題になっているNHK放送の記念番組「JAPANデビュー」について痛烈な批判文を寄稿している。タイトルは「真の狙いは皇室否定 祖国を貶める公共放送の哀れ」となっている。
「JAPANデビュー」は横浜開港から150年を記念して「これからの日本を探る」(NHK)というモチーフで企画され、4月4日「プロローグ」として「戦争と平和の150年」、5日タイトル「アジアの一等国」を放送した。引き続き5月3日「天皇と憲法」、6月7日「通商国家の挫折」が放映されている。
放映と同時に偏向報道だとして保守、右翼団体等からNHKに対して一斉に抗議が殺到、NHK本局包囲デモなど決行されその抗議がエスカレート、全国的な広がりを見せようと国民大行動を掲げ本格的な抗議体制を築きつつある。
そこで、加地伸行氏の場合は、NHK番組に対して、「時代考証をまるで無視 ご都合主義の番組編集」だと一蹴して、「お門違いの帝国主義批判」、「護憲と天皇批判に自己矛盾 詭弁的三段論法で言い逃れ」(副表題)だと厳しく批判しているのだ。
5日、タイトル「アジアの一等国」を放送した直後から、各界から抗議の声が殺到しているが、「WILL」7月号も例にもれず特集「NHKの暴走」を掲載、水島 総氏と黄 文雄氏にすき放題語らせている。例えば、水島 総氏は、「こういう印象操作編集の影響とサプリミナル効化が毎回タイトルバックとして繰り返し放送されるうちに、視聴者は反天皇(皇室)と反戦厭戦意識、米国中心から中国中心へ変わっていく世界観を刷り込まれていくことになる。」(WILL137頁)、「狡猾なプロパガンダ」と指摘している。さらに、第2回「天皇と憲法」については、「現日本国憲法の「護憲」を越えて、第1条から始まる天皇条項の根本的な見直しを主張し、将来の天皇(皇室)と天皇制度の廃絶までを言及していたのである。」(222頁)と語っている。
「日本文化チャンネル桜」の水島 総氏の批判は、報道人として、放映となった現場、台湾取材での検証を実施、番組に登場している人たちへのインタビューから、やらせ、捏造を含むNHKの「放送法違反の取材手法」であると断罪している。従って、黄 文雄氏の「NHK台湾番組に事実は一つもない」というタイトルが掲載されることにもなっている。「日台戦争なんて捏造」だ、となる。
さて、加地伸行氏の抗議文と嘆きに話を戻そう。今回例に挙げた各氏の抗議は、詰まるところ「JAPANデビュー」の番組は、明治天皇、昭和天皇の侵略戦争を批判した天皇制度廃止を目論んでいるトンデモナイ番組だということだ。「皇室の否定」と「憲法第9条改悪反対」に尽きる。従って、この左翼陣営からの攻撃をこの機会に徹底的に粉砕しておかなければ取り返しのつかない事態を招くという不安から起こっている抗議活動だと考える。さらに、加地伸行氏は、護憲派に対して、憲法改悪反対を訴えることによる矛盾、天皇制擁護になる矛盾を自己解消する為に「皇室」を貶める活動をすることで払拭しているというのだ。
いろいろ心配の種が尽きそうにない加地氏だが、思い込みも甚だしい、現実をもっと知るべきだと忠告したい。つまり、そんな自己矛盾などとっくに左翼陣営は解消済みである。ということは、天皇制をあっさり認めているからだ。憲法の冒頭で謳われている、日本国民の全ての総意をもって象徴天皇とする条文を認めていると言うことだ。日本国民の一人や二人は絶対認めないという御仁がいるだろうが、そう思っているだけで勝手に思っているに過ぎない。
さらに、昨今、原理主義的に「天皇制」を守って、「9条」を保持できるのであれば、戦後の天皇制を守る代わりに「9条」を厳守する約束を守るべきだと言う、とにかく、何が何でも日本が再び戦渦に突入することさえ避けられるのであれば、よりベターだと覚悟する発想である。角度を変えれば、戦争をしなければ自衛隊を保持することも可能だと諦める考えだ。
そこで、近年確実に解っていることは、「天皇制」と「自衛隊」は、日本の必要悪の要素から、国民生活の必需品に変質していることだ。従って、「悪」、「善」の二元的判断の状況には置かないことにして、ものごとの表裏一体のものとして何となく了解しているということである。これを念頭におけば、日本人は左翼に係わらず、指摘の矛盾はすでに解消されているわけで、悪足掻きしなくても良い訳で、あえて味付けした放送番組でなくてもよい。
日本軍の野望は国民の期待でもあったわけで、それを昭和天皇が実行したというのは帝国日本の時代そのもので、昭和天皇独りとその軍の野望を批判しても批判しきれない。あえて批判される事態は、原子爆弾の投下を招き決定的壊滅を許したことである。昭和天皇批判はこの一点に集約される。これは甘んじて受け入れなければならない「天皇制」の試練である。
最後に加地伸行氏に箴言しておきたい。学者ならなおのこと、やたらと本質論を決定しないほうがよい。
サブタイトル、『「万世一系の天皇」 本質は「生命の連続」にあり』(57頁)において
《儒教がその根本にあるのであるが、東北アジアにおける死生観において、大前提にあるのが〈生命の連続〉重視の思想である。この思想がまずあって、そこから放射線状にさまざまなことばが生まれ出てきたのである。すなわち〈生命の連続〉というものを表現したさまざまなことばの一つが「万世一系」なのである。「万世一系」ということばは表面であり、その内部にある〈生命の連続〉ということが日本人にとって本質なのである。》
日本人にとって本質であっても人間にとって本質であるとは限らない。限らないことを大前提にもの申すは如何なものか。生命体の本質は〈生命の連続〉という生態論で論じられ、種の本質野望というのはよく知られたところだ。しかし、それだけに連続性が突然途絶えることの連続性ということもある。本質論は絶対的でも恒久的でもないということだ。自己の精神安定剤として悪戯に「万世一系」論を玩ぶのは個人の領域に留めておくべきだ。
上記に掲げた加地氏の主張は、『〈生命の連続〉重視の思想である。この思想がまずあって、そこから放射線状にさまざまなことばが生まれ出てきたのである。』と端的に示すように、「ことば」は「天皇のことば」であると同義語的に扱われている。確かに「ことば」は文化であり、天皇制がある種日本の文化を体現してきたことは理解できる。しかし、だからといって「ことば」は「天皇」を体現してきたものでないことは自明の理である。加地氏の甚だしい「天皇」盲信振りを披露したに過ぎない。
従って、「正論」7月号、加地氏の「JAPANデビュー」批判文は、単純に崇拝、盲信の類の宗教的見地からの嘆きで批判内容とも根拠に著しく正当性のないものである。
加地伸行氏、現役引退後に保守論壇で気勢を上げている中国文学専門家、最近特に産経新聞等で持論を力説している。引退後に保守、反動的発言を強調する御仁が最近、顕著に増えてきている。社会が保守安定期として熟してきている証左でもあると考えるが、個人的には頑迷な保守思想を「正しかった」と自己了解しての結果から発言、行動が活発化しているとも考えられる。つまり、みっともない所業の一つと言える類だ。
月刊誌「正論」7月号に加地伸行氏は、最近、保守、右翼陣営の話題になっているNHK放送の記念番組「JAPANデビュー」について痛烈な批判文を寄稿している。タイトルは「真の狙いは皇室否定 祖国を貶める公共放送の哀れ」となっている。
「JAPANデビュー」は横浜開港から150年を記念して「これからの日本を探る」(NHK)というモチーフで企画され、4月4日「プロローグ」として「戦争と平和の150年」、5日タイトル「アジアの一等国」を放送した。引き続き5月3日「天皇と憲法」、6月7日「通商国家の挫折」が放映されている。
放映と同時に偏向報道だとして保守、右翼団体等からNHKに対して一斉に抗議が殺到、NHK本局包囲デモなど決行されその抗議がエスカレート、全国的な広がりを見せようと国民大行動を掲げ本格的な抗議体制を築きつつある。
そこで、加地伸行氏の場合は、NHK番組に対して、「時代考証をまるで無視 ご都合主義の番組編集」だと一蹴して、「お門違いの帝国主義批判」、「護憲と天皇批判に自己矛盾 詭弁的三段論法で言い逃れ」(副表題)だと厳しく批判しているのだ。
5日、タイトル「アジアの一等国」を放送した直後から、各界から抗議の声が殺到しているが、「WILL」7月号も例にもれず特集「NHKの暴走」を掲載、水島 総氏と黄 文雄氏にすき放題語らせている。例えば、水島 総氏は、「こういう印象操作編集の影響とサプリミナル効化が毎回タイトルバックとして繰り返し放送されるうちに、視聴者は反天皇(皇室)と反戦厭戦意識、米国中心から中国中心へ変わっていく世界観を刷り込まれていくことになる。」(WILL137頁)、「狡猾なプロパガンダ」と指摘している。さらに、第2回「天皇と憲法」については、「現日本国憲法の「護憲」を越えて、第1条から始まる天皇条項の根本的な見直しを主張し、将来の天皇(皇室)と天皇制度の廃絶までを言及していたのである。」(222頁)と語っている。
「日本文化チャンネル桜」の水島 総氏の批判は、報道人として、放映となった現場、台湾取材での検証を実施、番組に登場している人たちへのインタビューから、やらせ、捏造を含むNHKの「放送法違反の取材手法」であると断罪している。従って、黄 文雄氏の「NHK台湾番組に事実は一つもない」というタイトルが掲載されることにもなっている。「日台戦争なんて捏造」だ、となる。
さて、加地伸行氏の抗議文と嘆きに話を戻そう。今回例に挙げた各氏の抗議は、詰まるところ「JAPANデビュー」の番組は、明治天皇、昭和天皇の侵略戦争を批判した天皇制度廃止を目論んでいるトンデモナイ番組だということだ。「皇室の否定」と「憲法第9条改悪反対」に尽きる。従って、この左翼陣営からの攻撃をこの機会に徹底的に粉砕しておかなければ取り返しのつかない事態を招くという不安から起こっている抗議活動だと考える。さらに、加地伸行氏は、護憲派に対して、憲法改悪反対を訴えることによる矛盾、天皇制擁護になる矛盾を自己解消する為に「皇室」を貶める活動をすることで払拭しているというのだ。
いろいろ心配の種が尽きそうにない加地氏だが、思い込みも甚だしい、現実をもっと知るべきだと忠告したい。つまり、そんな自己矛盾などとっくに左翼陣営は解消済みである。ということは、天皇制をあっさり認めているからだ。憲法の冒頭で謳われている、日本国民の全ての総意をもって象徴天皇とする条文を認めていると言うことだ。日本国民の一人や二人は絶対認めないという御仁がいるだろうが、そう思っているだけで勝手に思っているに過ぎない。
さらに、昨今、原理主義的に「天皇制」を守って、「9条」を保持できるのであれば、戦後の天皇制を守る代わりに「9条」を厳守する約束を守るべきだと言う、とにかく、何が何でも日本が再び戦渦に突入することさえ避けられるのであれば、よりベターだと覚悟する発想である。角度を変えれば、戦争をしなければ自衛隊を保持することも可能だと諦める考えだ。
そこで、近年確実に解っていることは、「天皇制」と「自衛隊」は、日本の必要悪の要素から、国民生活の必需品に変質していることだ。従って、「悪」、「善」の二元的判断の状況には置かないことにして、ものごとの表裏一体のものとして何となく了解しているということである。これを念頭におけば、日本人は左翼に係わらず、指摘の矛盾はすでに解消されているわけで、悪足掻きしなくても良い訳で、あえて味付けした放送番組でなくてもよい。
日本軍の野望は国民の期待でもあったわけで、それを昭和天皇が実行したというのは帝国日本の時代そのもので、昭和天皇独りとその軍の野望を批判しても批判しきれない。あえて批判される事態は、原子爆弾の投下を招き決定的壊滅を許したことである。昭和天皇批判はこの一点に集約される。これは甘んじて受け入れなければならない「天皇制」の試練である。
最後に加地伸行氏に箴言しておきたい。学者ならなおのこと、やたらと本質論を決定しないほうがよい。
サブタイトル、『「万世一系の天皇」 本質は「生命の連続」にあり』(57頁)において
《儒教がその根本にあるのであるが、東北アジアにおける死生観において、大前提にあるのが〈生命の連続〉重視の思想である。この思想がまずあって、そこから放射線状にさまざまなことばが生まれ出てきたのである。すなわち〈生命の連続〉というものを表現したさまざまなことばの一つが「万世一系」なのである。「万世一系」ということばは表面であり、その内部にある〈生命の連続〉ということが日本人にとって本質なのである。》
日本人にとって本質であっても人間にとって本質であるとは限らない。限らないことを大前提にもの申すは如何なものか。生命体の本質は〈生命の連続〉という生態論で論じられ、種の本質野望というのはよく知られたところだ。しかし、それだけに連続性が突然途絶えることの連続性ということもある。本質論は絶対的でも恒久的でもないということだ。自己の精神安定剤として悪戯に「万世一系」論を玩ぶのは個人の領域に留めておくべきだ。
上記に掲げた加地氏の主張は、『〈生命の連続〉重視の思想である。この思想がまずあって、そこから放射線状にさまざまなことばが生まれ出てきたのである。』と端的に示すように、「ことば」は「天皇のことば」であると同義語的に扱われている。確かに「ことば」は文化であり、天皇制がある種日本の文化を体現してきたことは理解できる。しかし、だからといって「ことば」は「天皇」を体現してきたものでないことは自明の理である。加地氏の甚だしい「天皇」盲信振りを披露したに過ぎない。
従って、「正論」7月号、加地氏の「JAPANデビュー」批判文は、単純に崇拝、盲信の類の宗教的見地からの嘆きで批判内容とも根拠に著しく正当性のないものである。
2009年06月07日
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文芸評論家山崎幸太郎氏のブログ「毒蛇山荘日記」5月27日のタイトルは、「世襲政治亡国論など…」になっているが、冒頭は、最近話題になったイラン人女性の「文学界」新人賞受賞作品について大々的に言及されている。山崎氏持論の「論壇やジャーナリズムの思想的劣化と知的退廃」の原因論が披露されているのだ。先ずはその一文を下記に掲載してその原因とやらを考えてみたい。
《今度は、イラン生まれのイラン人女性が、日本語で書いた小説が、またまた「文学界」新人賞に選らばれている。こんなに立て続けに外国人女性が、母国語ではなく、外国語としての日本語で書いた小説が、新人賞に選ばれていることは、ちょっとその選考基準や選考方法、あるいはその仕掛けを疑いたくなるが、しかし、無論、選考基準や選考方法に何か仕掛けや秘密があるわけではないだろう。というわけで、「文学界」新人賞を受賞したシリン・ネザマフィの「白い紙」を読んでみたが、やはり受賞するだけあって、素朴な文体に素朴なテーマの小説だが、よく出来た感動を誘う小説である。イラン・イラク戦争下の少年、少女の出会いと別れを描いているが、日本人の書いた最近の小説にはない、新鮮な魅力を秘めている。
(中略)
この「白い紙」は単純素朴な小説に見えるが、決して単純素朴な小説ではない。自己の心理の奥底を「突き刺す視線」が、ここには、ある。「自己を突き刺し、笑い、相対化する視線」(松浦理英子) である。
(中略)
それらは文学にしか描けない。ところで、この母親や少女の、あるいは少年の屈辱や哀しみを、単純に「私」の感情論として切り捨てて、「公」の論理を声高に主張するようになったところに左翼論壇、保守論壇を含めて論壇やジャーナリズムの思想的劣化と知的退廃の原因があった、と私は思う。》
そして、『「諸君!」は、何故、柄谷行人を使わなかったのか?』において下記の山崎文芸論に続く。
《柄谷行人に比べれば、西部邁のマルクスその他に関する知識不足と思考力の欠如は明らかで、西部邁が、「物事を深く、持続的に考えていない」ことがわかる。これでは、西部邁に象徴される最近の「保守思想家」の思想的レベルが、どの程度のものかは察しがつくというものである。ところで、柄谷行人は、同じ文藝春秋の月刊雑誌である「文学界」には頻繁に登場しているが、「諸君!」には登場していない。何故、「諸君!」は、柄谷行人を登場させなかったのか。保守論壇全体が、哲学や文学を、つまり本質的、原理的な議論を避けて、遊びたかったからだろう。》
山崎氏はブログの巻頭言に『文藝や哲学を知らずして政治や経済を語るなかれ!!!』と銘記している。つまり、文芸と政治は同次元の関係性において成り立っているジャンルということを明言している。従って、文芸を理解できない政治家は、天下、国家を論じる資質に欠けるだけではなく、その素養すら怪しい連中ということになり、ずばり山崎氏の主張する「現代日本の政治が劣化し堕落したのは世襲政治家たちの存在が大きい」というところに帰する。世襲政治亡国論はさて置き、ここでは、文芸と政治の関係性について、特に力んで主張する「哲学を知らずして」、天下、国家論はその体を成さないという結論について述べてみる。
哲学が思想性をもたなくなって久しい。いまどきの時代は、お世辞にも哲学という体裁が生かされているという状況には到底ないことは万人が承知しているというよりも、無関心が超絶してしまっている。山崎氏の持論である、哲学をもたない左翼、右翼は、従って、革命、クーデターに及ぶエネルギーを持たない。つまり、社会変革の基盤、本質、原理をもたない単なる遊戯性、没政治に成り下がっているという訳だ。
槍玉に上がっているその筆頭が西部邁氏である。その反対に社会変革の基盤を胚胎していると持ち上げられているのが柄谷行人氏。その理由は、偏に西部邁氏の「知識不足と思考力の欠如」が指摘されている。一つの例えが、中央公論5月号西部邁氏と柄谷行人氏の対談「恐慌・国家・資本主義」である。また、同サイトにおいても再三に亘って西部邁氏の無能批判を展開している。知らないものであれば、余程の個人的怨恨関係にあるとしか考えられないような罵倒の連続である。筆者の凡庸な素養での理解では、西部邁氏と柄谷行人氏の対談において、洞察力の質、量的な格段のレベル差など特筆に価する内容でもなかったと受け取っている。むしろ対談そのものでの各氏の品評会は、いささか下品な振る舞いだと考えるが。取り敢えず、山崎氏の西部邁無能論は次回に回して、本題に戻る。
麻生太郎首相は、就任気合に昨年からの世界恐慌を百年に一度の不況と吹聴することで自分の手腕を披露すると喧伝した。結果は御覧の通り、私たちは他国の最後尾からの惨憺たる現実を体験させられている訳だが、こと世界の政治を振り返っても、百年に一度的な大変革をともなった変貌を模索すればするほど変革とは程遠い修正協議でしか成り立たない政治状況をつくりだしているのが昨今の現実である。それは、世界的難問協議をサミットG7から、G8、G20と参加国が増えることによる課題と議論の幅を拡げるほど修正の幅が縮小するというパラドックスに陥っている。
現在は、議論を深めればその量的な緩和しか得られないというジレンマにあっている。即ち、グローバル化は、大変革のタイミングを見事に奪うことに成功したのである。しかし、今日繰り広げられているグローバル批判は、この点に観関心で断絶している。つまり、グローバル化は私たちから思想性を奪ってしまい、しかも、その範疇に入り込む暇を与えずにモノで私たちを攻撃し続ける。
山崎氏はブログでこのような状態について「保守論壇全体が、哲学や文学を、つまり本質的、原理的な議論を避けて、遊びたかったからだろう。」としている。「遊び」という言葉の理解を測りかねるが、保守が権力に阿る状態が長引けば当然、危機感が薄れ「遊び」という寒暖差のない硬直した甘え構造にどっぷり浸るそのものが現前するのは当たり前である。失われ続ける60年代、70年代の没政治、没文化の時代の曙に日本全体が邁進、後を振り返ることなく豊かさに挑戦し続ける構造を完成させるために各自奔走した。それは確かに「遊び」を伴ったもので、政治、文学以前の人生そのものといえるものだ。
確かに山崎氏の指摘する「物事を深く、持続的に考えていない」、考えなかったというのは妥当な見解であろう。少なくとも60年代後「持続的に考えていない」ことが慢性化したことは事実のようだ。その為に、思想的劣化と知的退廃を招いたという指摘も強ち間違いではないだろう。然しである、現在の政治的状況を鑑みれば、短絡的に「思想的劣化と知的退廃」などと吹聴していられない、歴史時間の過去との速度違いが今日の私たちを狂わせている状況にあることも認めざるを得なくなってきている。「物事を深く、持続的に考える」ことを許さない暴力的時代の速さが私たちを狂わせている。つまり、思想が思想性を駆逐してしまっている。
『「公」の論理を声高に主張する』時代的要求が60年代以降に顕著だったことは認めざるを得ない。しかし、日本の近代はそれを必要としたのである。さらに、『単純に「私」の感情論として切り捨てて』と指摘しているが、近代は、普遍的な「私」を求めたのであって、取り敢えず、反動的「私」を退けたということはいえる。従って、この時代変貌を洞察すれば、単に文学、哲学の終焉を「物事を深く、持続的に考えていない」の原因で決め付けることはできない筈だ。
「物事を深く、持続的に考えていない」というレッテル張りで西部邁氏の人格程度を物差しにするのは下品な下種批評になりかねない。西部邁氏は「物事を深く、持続的に考えた」から、学生左翼運動から保守陣営に鞍替え、西部邁氏特有の社会変革力学かもしれない。
文芸評論家山崎幸太郎氏のブログ「毒蛇山荘日記」5月27日のタイトルは、「世襲政治亡国論など…」になっているが、冒頭は、最近話題になったイラン人女性の「文学界」新人賞受賞作品について大々的に言及されている。山崎氏持論の「論壇やジャーナリズムの思想的劣化と知的退廃」の原因論が披露されているのだ。先ずはその一文を下記に掲載してその原因とやらを考えてみたい。
《今度は、イラン生まれのイラン人女性が、日本語で書いた小説が、またまた「文学界」新人賞に選らばれている。こんなに立て続けに外国人女性が、母国語ではなく、外国語としての日本語で書いた小説が、新人賞に選ばれていることは、ちょっとその選考基準や選考方法、あるいはその仕掛けを疑いたくなるが、しかし、無論、選考基準や選考方法に何か仕掛けや秘密があるわけではないだろう。というわけで、「文学界」新人賞を受賞したシリン・ネザマフィの「白い紙」を読んでみたが、やはり受賞するだけあって、素朴な文体に素朴なテーマの小説だが、よく出来た感動を誘う小説である。イラン・イラク戦争下の少年、少女の出会いと別れを描いているが、日本人の書いた最近の小説にはない、新鮮な魅力を秘めている。
(中略)
この「白い紙」は単純素朴な小説に見えるが、決して単純素朴な小説ではない。自己の心理の奥底を「突き刺す視線」が、ここには、ある。「自己を突き刺し、笑い、相対化する視線」(松浦理英子) である。
(中略)
それらは文学にしか描けない。ところで、この母親や少女の、あるいは少年の屈辱や哀しみを、単純に「私」の感情論として切り捨てて、「公」の論理を声高に主張するようになったところに左翼論壇、保守論壇を含めて論壇やジャーナリズムの思想的劣化と知的退廃の原因があった、と私は思う。》
そして、『「諸君!」は、何故、柄谷行人を使わなかったのか?』において下記の山崎文芸論に続く。
《柄谷行人に比べれば、西部邁のマルクスその他に関する知識不足と思考力の欠如は明らかで、西部邁が、「物事を深く、持続的に考えていない」ことがわかる。これでは、西部邁に象徴される最近の「保守思想家」の思想的レベルが、どの程度のものかは察しがつくというものである。ところで、柄谷行人は、同じ文藝春秋の月刊雑誌である「文学界」には頻繁に登場しているが、「諸君!」には登場していない。何故、「諸君!」は、柄谷行人を登場させなかったのか。保守論壇全体が、哲学や文学を、つまり本質的、原理的な議論を避けて、遊びたかったからだろう。》
山崎氏はブログの巻頭言に『文藝や哲学を知らずして政治や経済を語るなかれ!!!』と銘記している。つまり、文芸と政治は同次元の関係性において成り立っているジャンルということを明言している。従って、文芸を理解できない政治家は、天下、国家を論じる資質に欠けるだけではなく、その素養すら怪しい連中ということになり、ずばり山崎氏の主張する「現代日本の政治が劣化し堕落したのは世襲政治家たちの存在が大きい」というところに帰する。世襲政治亡国論はさて置き、ここでは、文芸と政治の関係性について、特に力んで主張する「哲学を知らずして」、天下、国家論はその体を成さないという結論について述べてみる。
哲学が思想性をもたなくなって久しい。いまどきの時代は、お世辞にも哲学という体裁が生かされているという状況には到底ないことは万人が承知しているというよりも、無関心が超絶してしまっている。山崎氏の持論である、哲学をもたない左翼、右翼は、従って、革命、クーデターに及ぶエネルギーを持たない。つまり、社会変革の基盤、本質、原理をもたない単なる遊戯性、没政治に成り下がっているという訳だ。
槍玉に上がっているその筆頭が西部邁氏である。その反対に社会変革の基盤を胚胎していると持ち上げられているのが柄谷行人氏。その理由は、偏に西部邁氏の「知識不足と思考力の欠如」が指摘されている。一つの例えが、中央公論5月号西部邁氏と柄谷行人氏の対談「恐慌・国家・資本主義」である。また、同サイトにおいても再三に亘って西部邁氏の無能批判を展開している。知らないものであれば、余程の個人的怨恨関係にあるとしか考えられないような罵倒の連続である。筆者の凡庸な素養での理解では、西部邁氏と柄谷行人氏の対談において、洞察力の質、量的な格段のレベル差など特筆に価する内容でもなかったと受け取っている。むしろ対談そのものでの各氏の品評会は、いささか下品な振る舞いだと考えるが。取り敢えず、山崎氏の西部邁無能論は次回に回して、本題に戻る。
麻生太郎首相は、就任気合に昨年からの世界恐慌を百年に一度の不況と吹聴することで自分の手腕を披露すると喧伝した。結果は御覧の通り、私たちは他国の最後尾からの惨憺たる現実を体験させられている訳だが、こと世界の政治を振り返っても、百年に一度的な大変革をともなった変貌を模索すればするほど変革とは程遠い修正協議でしか成り立たない政治状況をつくりだしているのが昨今の現実である。それは、世界的難問協議をサミットG7から、G8、G20と参加国が増えることによる課題と議論の幅を拡げるほど修正の幅が縮小するというパラドックスに陥っている。
現在は、議論を深めればその量的な緩和しか得られないというジレンマにあっている。即ち、グローバル化は、大変革のタイミングを見事に奪うことに成功したのである。しかし、今日繰り広げられているグローバル批判は、この点に観関心で断絶している。つまり、グローバル化は私たちから思想性を奪ってしまい、しかも、その範疇に入り込む暇を与えずにモノで私たちを攻撃し続ける。
山崎氏はブログでこのような状態について「保守論壇全体が、哲学や文学を、つまり本質的、原理的な議論を避けて、遊びたかったからだろう。」としている。「遊び」という言葉の理解を測りかねるが、保守が権力に阿る状態が長引けば当然、危機感が薄れ「遊び」という寒暖差のない硬直した甘え構造にどっぷり浸るそのものが現前するのは当たり前である。失われ続ける60年代、70年代の没政治、没文化の時代の曙に日本全体が邁進、後を振り返ることなく豊かさに挑戦し続ける構造を完成させるために各自奔走した。それは確かに「遊び」を伴ったもので、政治、文学以前の人生そのものといえるものだ。
確かに山崎氏の指摘する「物事を深く、持続的に考えていない」、考えなかったというのは妥当な見解であろう。少なくとも60年代後「持続的に考えていない」ことが慢性化したことは事実のようだ。その為に、思想的劣化と知的退廃を招いたという指摘も強ち間違いではないだろう。然しである、現在の政治的状況を鑑みれば、短絡的に「思想的劣化と知的退廃」などと吹聴していられない、歴史時間の過去との速度違いが今日の私たちを狂わせている状況にあることも認めざるを得なくなってきている。「物事を深く、持続的に考える」ことを許さない暴力的時代の速さが私たちを狂わせている。つまり、思想が思想性を駆逐してしまっている。
『「公」の論理を声高に主張する』時代的要求が60年代以降に顕著だったことは認めざるを得ない。しかし、日本の近代はそれを必要としたのである。さらに、『単純に「私」の感情論として切り捨てて』と指摘しているが、近代は、普遍的な「私」を求めたのであって、取り敢えず、反動的「私」を退けたということはいえる。従って、この時代変貌を洞察すれば、単に文学、哲学の終焉を「物事を深く、持続的に考えていない」の原因で決め付けることはできない筈だ。
「物事を深く、持続的に考えていない」というレッテル張りで西部邁氏の人格程度を物差しにするのは下品な下種批評になりかねない。西部邁氏は「物事を深く、持続的に考えた」から、学生左翼運動から保守陣営に鞍替え、西部邁氏特有の社会変革力学かもしれない。
2009年06月02日
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5月29日共同通信は、北朝鮮の朝鮮労働党機関紙「労働新聞」に『「日本全土が報復圏内」「修羅場に」と警告記事が掲載されたという朝鮮中央通信の配信を伝えている。
《「日本全土が報復圏内」「修羅場に」と警告 北朝鮮(2009.5.29 11:35)
北朝鮮の朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は29日、自民党内で敵基地攻撃能力保有論が取り上げられ、麻生太郎首相が法的な可能性に言及していることなどを「再侵略の野心の表れ」と非難、「日本が再侵略戦争を起こすなら、全土が報復打撃の圏内となる」と警告する論評を掲載した。朝鮮中央通信が伝えた。
論評はまた、「日本の主要都市である東京、大阪、横浜、名古屋と京都には、日本の人口の3分の1以上が住み、工業の基幹部分が集中している」とした上で、「強力な反撃が行われれば、日本は修羅場になるだろう」と強調した。(共同)》
そこで、政府の敵基地攻撃能力保有論と北朝鮮の挑発に反発する強硬派の「国家基本問題研究所(櫻井よしこ理事長)」の緊急提言について言及してみる。
4月の北朝鮮中距離ミサイル発射実験を受けて、5月24日自民党国防部会防衛政策検討小委員会が対策提言案を発表した。提言案は、『敵基地攻撃に関し「専守防衛の範囲で座して死を待たない防衛政策として敵基地攻撃能力が必要」と強調。情報収集衛星で相手国の発射の動きを察知し、巡航ミサイルなどで攻撃することは可能とした。』(24日共同通信)
「国家基本問題研究所」は、緊急提言(5月29日)として表題そのものがズバリ主張している「全面制裁で北朝鮮の核開発を阻止せよ いまこそ集団的自衛権と非核三原則の見直しを」に尽きる。提言は、北朝鮮に対するモノ、カネ、ヒトの全面交流停止の実施による、ミサイル、核開発無能力化を主張している。さらに、核保有による抑止力の強化と敵基地攻撃能力の保有。つまり北朝鮮との戦争準備を進めることを提言している。「やられる前にやっつけろ」という訳だ。
北朝鮮が「日本全土が報復圏内」、「修羅場に」と警告記事を発表した背景には、こうした日本の敵基地攻撃論(時には先制攻撃論)、核保有論と徹底断絶孤立化推進論に対する北朝鮮の報復的対処を鼓舞したものだろう。
既に北朝鮮は、韓国に「宣戦布告」をしている。従って、黄海を航行する米韓両艦船の安全を保障しないと発表、安保理の新決議の内容次第では、いつ日米韓との武力衝突があってもおかしくない空気になることは否定できない。過去に2度韓国との武力衝突がそのことを明示している。
そこで現実はどうなるかということだが、中国が安保理と歩調を併せて断固とした対応をとらない限り、今の制裁処置は実現しない。というのは、飽くまでも米国は中国の顔色を窺っての最終決断しか腹を据えていない。米国の国内事情でミサイル発射問題は飽くまでもその次である。米国は中国との関係維持がしっかり出来ていれば北朝鮮問題は慌てる即急を要する問題ではないと常に高を括っている。また、現実的に北朝鮮は過去においてもそうだが、現時点では中国の全ての援助がなければ成り立たない状況に国自体がなってしまっている。中国の許可がなければ戦争はできないのが現実である。その他は、自爆テロか恣意的暴発しかない訳だが、これは中国、韓国、日本にとってはそれこそ戦争以上に避けたい最悪のシナリオだ。
従って、日本の敵基地攻撃論と全面制裁は、北朝鮮に対する宣戦布告と考えられる訳だが、その一方、日韓米三国による一体制裁を基本に、6者協議を模索しているのが現実である。今のところ日本が突出した攻撃型制裁論を展開しているが、米国次第で腰砕けになる可能性が過去の例から大いにある。
一連の北朝鮮の挑発的軍事威力実験に対して、韓国、日本は神経質にならざるを得ない状況はある。しかし、北朝鮮本国の内輪事情を鑑みれば、北朝鮮ならではの瀬戸際外交を展開せざるを得ない状況もまた理解できるところだ。と言うのは、金正日総書記の病状悪化による後継者問題に区切りをつけ、磐石的基盤背景での引継ぎを三男正雲氏で完了させたい意図が伝統的形式にのっとり行なわれているからだ。
それは、朝鮮中央通信は2回目の核実験成功を「実験の成功が150日戦闘に立ち上がった我が軍隊と人民を大きく鼓舞している」と伝えていることからも分かる。150日戦闘とは、三男正雲氏が主導しているといわれる総動員態勢運動のことである。即ち、狙いは指導者の権威確立とそれに対する集中的忠誠心のお膳立て、状況をつくっていると見てよいものだ。つまり、後継者のお披露目ということだ。従って、これら軍事実験による大国との対等交渉を背景に、各国から歴史的にごり押しで得てきた援助を最大限に獲得することを狙っている。
つまり、今回のミサイル発射、核実験等の一連の軍事行動の狙いは、偏に国内統制向に実施されたと考えるのが妥当な見解と思われる。従って、極めて近隣諸国は迷惑な話ではあるが、絶対的敵視政策によるものでないと解釈して、各国とも冷静な対応が望まれるところだ。決して、戦争準備環境を整える声を高々に吹聴するのではなく、飽くまでもこれまでにも役に立たないことが多い国連決議にそって粛々と進めるのが順当なところだろう。どうせ、中国のご機嫌をとりながらの米国の判断でしかない日本政府なのだから。
兎に角、敵基地攻撃論と全面制裁は、戦争準備と敵国に対する宣戦布告に値する点火前状況である、北朝鮮を挑発し続ける必要はない。米国は北朝鮮を攻撃できないことを百も承知しているのだから。
5月29日共同通信は、北朝鮮の朝鮮労働党機関紙「労働新聞」に『「日本全土が報復圏内」「修羅場に」と警告記事が掲載されたという朝鮮中央通信の配信を伝えている。
《「日本全土が報復圏内」「修羅場に」と警告 北朝鮮(2009.5.29 11:35)
北朝鮮の朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は29日、自民党内で敵基地攻撃能力保有論が取り上げられ、麻生太郎首相が法的な可能性に言及していることなどを「再侵略の野心の表れ」と非難、「日本が再侵略戦争を起こすなら、全土が報復打撃の圏内となる」と警告する論評を掲載した。朝鮮中央通信が伝えた。
論評はまた、「日本の主要都市である東京、大阪、横浜、名古屋と京都には、日本の人口の3分の1以上が住み、工業の基幹部分が集中している」とした上で、「強力な反撃が行われれば、日本は修羅場になるだろう」と強調した。(共同)》
そこで、政府の敵基地攻撃能力保有論と北朝鮮の挑発に反発する強硬派の「国家基本問題研究所(櫻井よしこ理事長)」の緊急提言について言及してみる。
4月の北朝鮮中距離ミサイル発射実験を受けて、5月24日自民党国防部会防衛政策検討小委員会が対策提言案を発表した。提言案は、『敵基地攻撃に関し「専守防衛の範囲で座して死を待たない防衛政策として敵基地攻撃能力が必要」と強調。情報収集衛星で相手国の発射の動きを察知し、巡航ミサイルなどで攻撃することは可能とした。』(24日共同通信)
「国家基本問題研究所」は、緊急提言(5月29日)として表題そのものがズバリ主張している「全面制裁で北朝鮮の核開発を阻止せよ いまこそ集団的自衛権と非核三原則の見直しを」に尽きる。提言は、北朝鮮に対するモノ、カネ、ヒトの全面交流停止の実施による、ミサイル、核開発無能力化を主張している。さらに、核保有による抑止力の強化と敵基地攻撃能力の保有。つまり北朝鮮との戦争準備を進めることを提言している。「やられる前にやっつけろ」という訳だ。
北朝鮮が「日本全土が報復圏内」、「修羅場に」と警告記事を発表した背景には、こうした日本の敵基地攻撃論(時には先制攻撃論)、核保有論と徹底断絶孤立化推進論に対する北朝鮮の報復的対処を鼓舞したものだろう。
既に北朝鮮は、韓国に「宣戦布告」をしている。従って、黄海を航行する米韓両艦船の安全を保障しないと発表、安保理の新決議の内容次第では、いつ日米韓との武力衝突があってもおかしくない空気になることは否定できない。過去に2度韓国との武力衝突がそのことを明示している。
そこで現実はどうなるかということだが、中国が安保理と歩調を併せて断固とした対応をとらない限り、今の制裁処置は実現しない。というのは、飽くまでも米国は中国の顔色を窺っての最終決断しか腹を据えていない。米国の国内事情でミサイル発射問題は飽くまでもその次である。米国は中国との関係維持がしっかり出来ていれば北朝鮮問題は慌てる即急を要する問題ではないと常に高を括っている。また、現実的に北朝鮮は過去においてもそうだが、現時点では中国の全ての援助がなければ成り立たない状況に国自体がなってしまっている。中国の許可がなければ戦争はできないのが現実である。その他は、自爆テロか恣意的暴発しかない訳だが、これは中国、韓国、日本にとってはそれこそ戦争以上に避けたい最悪のシナリオだ。
従って、日本の敵基地攻撃論と全面制裁は、北朝鮮に対する宣戦布告と考えられる訳だが、その一方、日韓米三国による一体制裁を基本に、6者協議を模索しているのが現実である。今のところ日本が突出した攻撃型制裁論を展開しているが、米国次第で腰砕けになる可能性が過去の例から大いにある。
一連の北朝鮮の挑発的軍事威力実験に対して、韓国、日本は神経質にならざるを得ない状況はある。しかし、北朝鮮本国の内輪事情を鑑みれば、北朝鮮ならではの瀬戸際外交を展開せざるを得ない状況もまた理解できるところだ。と言うのは、金正日総書記の病状悪化による後継者問題に区切りをつけ、磐石的基盤背景での引継ぎを三男正雲氏で完了させたい意図が伝統的形式にのっとり行なわれているからだ。
それは、朝鮮中央通信は2回目の核実験成功を「実験の成功が150日戦闘に立ち上がった我が軍隊と人民を大きく鼓舞している」と伝えていることからも分かる。150日戦闘とは、三男正雲氏が主導しているといわれる総動員態勢運動のことである。即ち、狙いは指導者の権威確立とそれに対する集中的忠誠心のお膳立て、状況をつくっていると見てよいものだ。つまり、後継者のお披露目ということだ。従って、これら軍事実験による大国との対等交渉を背景に、各国から歴史的にごり押しで得てきた援助を最大限に獲得することを狙っている。
つまり、今回のミサイル発射、核実験等の一連の軍事行動の狙いは、偏に国内統制向に実施されたと考えるのが妥当な見解と思われる。従って、極めて近隣諸国は迷惑な話ではあるが、絶対的敵視政策によるものでないと解釈して、各国とも冷静な対応が望まれるところだ。決して、戦争準備環境を整える声を高々に吹聴するのではなく、飽くまでもこれまでにも役に立たないことが多い国連決議にそって粛々と進めるのが順当なところだろう。どうせ、中国のご機嫌をとりながらの米国の判断でしかない日本政府なのだから。
兎に角、敵基地攻撃論と全面制裁は、戦争準備と敵国に対する宣戦布告に値する点火前状況である、北朝鮮を挑発し続ける必要はない。米国は北朝鮮を攻撃できないことを百も承知しているのだから。
2009年05月22日
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現在社会は、私たちに目まぐるしく日替わりに襲い掛かる恐怖社会そのものである。関西地区での新インフルエンザ騒動、16日鳩山民主党新代表誕生、21日に施行される裁判員制度、その他、跡を絶たない議員の不祥事、凶悪な社会犯罪等、四半世紀前と比べ多様さと密度を増した重圧は今後さらに増発し続ける。且つ、市民生活においては、この恐怖を払拭する為の諸費用を政府が大盤振舞する現況、個人の借金の肩代わりは、そろそろ限界に達したという由々しき事態になっている。
当ブログ4月26日「海外派兵新法案は特効薬か」で既に論じ切っている自衛隊のソマリア沖派遣も18日現実のものとなり、私たちにとってさらなる恐怖社会の到来となった。一般の国民の気持ちとは裏腹に、というよりは無関心と言った方が正確だが、関係者の間では晴れて今後の国際舞台での活躍が期待されている。
当初は海自派遣について若干の国会論議ならびに国民の関心があったようだが、ピースボート(「反対、でも守って」 ピースボート、海自が護衛 ソマリア沖)までが護衛を依頼しての航海に至っては、もはや誰もこの件に関しては口を挿む者がいなくなったと言うのが正確なところだろう。
しかしながら、筆者は既に論じ切っているとは言え、やはり、海自が護衛に派遣されるのと、今回の混成自衛隊のジブチ派遣は、いろんな意味でこれまでのイラク派遣、PKO等の自衛隊派遣とは異次元の試みであるので不安が爆発しそうだと考えざるを得ない。今後日本は、引き返すことの出来ない戦いの渦中に身を置くことになり、再び戦争を可能にする。国際貢献とは、日本を戦争に巻き込む呼び水であり、交戦することにより、貢献が民族憎悪を呼覚まし血で血を洗う過ちをくり返すことになる。
既に自衛隊は覚悟を決めている。5月18日下野新聞に掲載された記事<中即連ジブチへ 宇都宮から初の海外派遣>は、そのことを如実に書いている、その文脈を引用しておく。
《統合部隊で警衛隊長を務める中即連の波多野武第三中隊長も「警備する上で共同する部分は必ずある。積極的に調整してお互いが助け合える所は助けていく」と強調する。
万が一、警護対象のP3Cが襲撃を受けた場合、中即連は−。
「P3Cが撃たれたら、こちらも撃たなければならない」。ある陸自幹部は、こう言い切った。「武器使用は切羽詰まった状況でやる。最終的には個人の判断にならざるを得ない」
日本から約一万キロ離れた異国の地ジブチ。数々の制約に縛られる中、想定外の事態に巻き込まれる可能性も決して否定できない。》
異国の地ジブチ、ソマリア沖での銃撃が日本を決定的な参戦国にする、もはや、後方支援だとかの釈明は通じなくなる。つまり、日本も対銃撃戦国の報復の的になるのだ。そこで、しっかり認識しておかなければならないことは、戦渦は自衛隊だけが覚悟して実践するのではなく、私たち国民もその渦中のど真ん中にいるという事である。もはや共犯者以上の実践者であり被害者になるということだ、覚悟を決めるしかない。
現在社会は、私たちに目まぐるしく日替わりに襲い掛かる恐怖社会そのものである。関西地区での新インフルエンザ騒動、16日鳩山民主党新代表誕生、21日に施行される裁判員制度、その他、跡を絶たない議員の不祥事、凶悪な社会犯罪等、四半世紀前と比べ多様さと密度を増した重圧は今後さらに増発し続ける。且つ、市民生活においては、この恐怖を払拭する為の諸費用を政府が大盤振舞する現況、個人の借金の肩代わりは、そろそろ限界に達したという由々しき事態になっている。
当ブログ4月26日「海外派兵新法案は特効薬か」で既に論じ切っている自衛隊のソマリア沖派遣も18日現実のものとなり、私たちにとってさらなる恐怖社会の到来となった。一般の国民の気持ちとは裏腹に、というよりは無関心と言った方が正確だが、関係者の間では晴れて今後の国際舞台での活躍が期待されている。
当初は海自派遣について若干の国会論議ならびに国民の関心があったようだが、ピースボート(「反対、でも守って」 ピースボート、海自が護衛 ソマリア沖)までが護衛を依頼しての航海に至っては、もはや誰もこの件に関しては口を挿む者がいなくなったと言うのが正確なところだろう。
しかしながら、筆者は既に論じ切っているとは言え、やはり、海自が護衛に派遣されるのと、今回の混成自衛隊のジブチ派遣は、いろんな意味でこれまでのイラク派遣、PKO等の自衛隊派遣とは異次元の試みであるので不安が爆発しそうだと考えざるを得ない。今後日本は、引き返すことの出来ない戦いの渦中に身を置くことになり、再び戦争を可能にする。国際貢献とは、日本を戦争に巻き込む呼び水であり、交戦することにより、貢献が民族憎悪を呼覚まし血で血を洗う過ちをくり返すことになる。
既に自衛隊は覚悟を決めている。5月18日下野新聞に掲載された記事<中即連ジブチへ 宇都宮から初の海外派遣>は、そのことを如実に書いている、その文脈を引用しておく。
《統合部隊で警衛隊長を務める中即連の波多野武第三中隊長も「警備する上で共同する部分は必ずある。積極的に調整してお互いが助け合える所は助けていく」と強調する。
万が一、警護対象のP3Cが襲撃を受けた場合、中即連は−。
「P3Cが撃たれたら、こちらも撃たなければならない」。ある陸自幹部は、こう言い切った。「武器使用は切羽詰まった状況でやる。最終的には個人の判断にならざるを得ない」
日本から約一万キロ離れた異国の地ジブチ。数々の制約に縛られる中、想定外の事態に巻き込まれる可能性も決して否定できない。》
異国の地ジブチ、ソマリア沖での銃撃が日本を決定的な参戦国にする、もはや、後方支援だとかの釈明は通じなくなる。つまり、日本も対銃撃戦国の報復の的になるのだ。そこで、しっかり認識しておかなければならないことは、戦渦は自衛隊だけが覚悟して実践するのではなく、私たち国民もその渦中のど真ん中にいるという事である。もはや共犯者以上の実践者であり被害者になるということだ、覚悟を決めるしかない。