2004年08月
2004年08月23日
8月15日、全国至る所で「平和を祈る」催しが例年通り行われた。
催しの精神は、終戦を振り返り二度と再び戦火に見舞われることのないように「平和を願う心」への回帰作用として継承されてきた。また、15日は日常では忘れがちになる自己の純粋精神に立ち返る時間軸として、ここそれぞれの記念日的な時間を共有する日にちでもある。
それは今日の日本の礎を考えさせる一瞬の儀式を物語ってきた。従って、59年前の「無言の声」を厳粛に聞くというのが国民の姿勢で、そこから喚起されて反省があるべき歴史時間、終戦記念日になっている。
15日各紙の論調は当然上記された情緒を基盤に書かれているものが例年通りと思いきや、実は意外な主張、驚きと落胆の社説があった。全体的には真摯な歴史時間を共有しようとする姿勢が窺われる。特に産経新聞主張は、8月15日からの教訓を真摯に学びとるとすれば、「必要な戦後の遺制清算」の調整と整理を行い、「日本の国益」を考えれば「憲法改正」しかなく、それは、「戦後不当に貶められてきた戦没者や自衛隊の名誉が担保される」ものでなくてはならないとあった。
一つの終戦記念日の教訓として、首尾一貫した産経新聞社の真摯な姿勢が窺われる。
15日の靖国神社には多様な記念日がある。また、傾聴に値する社説、日経新聞社の「敗戦の日 無言の声に耳を澄ませたい」がある。概略の必要がない表題そのものが内容である。そして表題からして「無言の声」を聞けとばかりに、東京新聞社社説「終戦記念日に考える 浅はか過ぎないか」は特に警鐘を込めた「声」になっている。
社説の最終語句は「身辺ばかり見ていず、目を上げよ。遠く広く時空をにらんで、じっくり考えてみよ。この国をおまえたちの代で壊すな」で結ばれている。さらに、「憲法改正」に熱心な読売新聞社も真摯な気持ちで終戦記念日を論じている。「先の大戦でなくなったすべての戦没者を追悼し、平和への誓いを新たにする日である。」から始まっている。これらから押し並べて8月15日は反省の歴史時間、純粋精神に一瞬身をおく各個人の厳粛な記念日になっている。
驚きと落胆の社説について
8月15日終戦記念日の社説としてこれほど支離滅裂な論調も珍しい。毎日新聞社の「世界の平和作りに参画しよう」がそれである。この表題から毎日新聞社の見識を疑う。表題は、15日全国戦没者追悼式で小泉首相が「世界の恒久平和の確立に積極的に貢献する。」と述べた式辞と全く一緒ではないか。何時から毎日新聞社は小泉首相の報道担当になったのか、正気を疑う。
先ず、落胆と書いたのは、日本の8月15日は終戦記念日であるという視点が全く欠落している点である。また、驚きは、毎日新聞社の理解能力の欠如が著しいことに対してである。世界の二極化現象、侵略戦争を仕掛けている「豊かな社会」と攻撃を受けている「貧しい社会」の二分化構図の実態を、「貧しい現実の放置がテロリズムと結びついて豊かな社会を危険に陥れる実質的な弊害が予知できそうになってきたからでもある。」(社説から) と括ってしまう発想のそれこそ貧困能力、偽装能力の表現としか読み取れない。さらに読み捨てならぬ文言「日本の平和と繁栄の陰に実際にははなはだ危険で貧しい同じ地球人がたくさんいる現実を放置できなくなった」(社説から)と書かれている。問い質すが、「危険で貧しい同じ地球人」とはアフガニスタン人とイラク人そして北朝鮮人を指しているのか。毎日新聞社は明確に答えなければならない。
支離滅裂、認識不足も甚だしい主張
『合意形成の過程が大事テロとの戦いは9・11事件からアフガン戦争、イラク戦争と続きこれで終結する保証はない。国家間の戦いを前提にした日本の平和主義体制にも修正の必要は出てきている。』(社説)
「合意形成の過程が大事」は民主主義の根幹のように言われて久しい。しかし清潔、美貌的形態、内的潔癖症を建前とする日本戦後民主主義は、合意さえ出来れば何でも良いという特効薬を服用しすぎた為に、「理念」が棚上げにされその挙句、建前と本音が転倒、混在する現実を招いてしまった。
今、私達は氾濫する情報、マスコミから明確に認識を新たにしなければならないことは、現状況のアフガン戦争、イラク戦争はレジスタンスであり、「テロとの戦い」ではないということだ。テロリストはアメリカであり多国籍軍はその取り巻き応援団である事実を曖昧さがなく正確に認識することである。しかし、毎日新聞社は現在のアフガン、イラクの状況を「テロとの戦い」継続と位置づけ、以ての外である憲法改正を睨んだ論評になっている。
「理念」が問われることがなく、「言葉」の意味を拡大解釈することにより国民との意識(合意)と異にする、遊離することを避けてきた現在のマスコミは、もはや修正が効かない体制代弁者に成り下がってしまった。現在のマスコミは組織の最大利益になる追求法則を認め、戦後の過ちを省みず、戦後誓った本来の業務を放棄した結果、自ら民主主義を葬る主役になっている。この所行は再度の歴史時間軸に因って糾弾されることを願うしかない。
もう一度外交努力を
世界の平和には貢献すべきなのである。その具体的方法として米国追随もひとつの考え方だが、国連安全保障理事会の常任理事国になって和平の枠組み作りに恒常的に関与する地位を真剣に求めていくべきではないだろうか。いつまでも国連分担金の2割近くを負担し続けるだけで、発言と意思決定への参画の場を持たないのは世界に対してかえって無責任ではないだろうか。
ドイツと共に連合軍の敵国として国連から監視対象に位置づけられた日本が60年近くを経て、平和憲法を持ったままで常任理事国に入ること自体、国連の歴史を変える。戦争を放棄した国が世界の平和に関与する新しい概念を人類史に送り込む意気込みが必要ではないか。当然それはイラク戦争で無力感を味わった国連の大改革に結びつく衝撃波になるだろう。米国の行動に振り回され戸惑う世界が次の時代への光明を見いだす契機にもなる。幸い12月には国連改革の有識者委員会が報告を出す。
国連安全保障理事会改革と日本の安保理常任理事国入りの議論が高まってきた。外務省は今月初め、「国連強化対策本部」(本部長・川口順子外相)を設置し、近く担当の大使も任命する。
これまで常任理事国入り問題には慎重だった小泉純一郎首相が九月下旬の国連総会に出席し、どのように訴えるかにも関心が集まっている。
催しの精神は、終戦を振り返り二度と再び戦火に見舞われることのないように「平和を願う心」への回帰作用として継承されてきた。また、15日は日常では忘れがちになる自己の純粋精神に立ち返る時間軸として、ここそれぞれの記念日的な時間を共有する日にちでもある。
それは今日の日本の礎を考えさせる一瞬の儀式を物語ってきた。従って、59年前の「無言の声」を厳粛に聞くというのが国民の姿勢で、そこから喚起されて反省があるべき歴史時間、終戦記念日になっている。
15日各紙の論調は当然上記された情緒を基盤に書かれているものが例年通りと思いきや、実は意外な主張、驚きと落胆の社説があった。全体的には真摯な歴史時間を共有しようとする姿勢が窺われる。特に産経新聞主張は、8月15日からの教訓を真摯に学びとるとすれば、「必要な戦後の遺制清算」の調整と整理を行い、「日本の国益」を考えれば「憲法改正」しかなく、それは、「戦後不当に貶められてきた戦没者や自衛隊の名誉が担保される」ものでなくてはならないとあった。
一つの終戦記念日の教訓として、首尾一貫した産経新聞社の真摯な姿勢が窺われる。
15日の靖国神社には多様な記念日がある。また、傾聴に値する社説、日経新聞社の「敗戦の日 無言の声に耳を澄ませたい」がある。概略の必要がない表題そのものが内容である。そして表題からして「無言の声」を聞けとばかりに、東京新聞社社説「終戦記念日に考える 浅はか過ぎないか」は特に警鐘を込めた「声」になっている。
社説の最終語句は「身辺ばかり見ていず、目を上げよ。遠く広く時空をにらんで、じっくり考えてみよ。この国をおまえたちの代で壊すな」で結ばれている。さらに、「憲法改正」に熱心な読売新聞社も真摯な気持ちで終戦記念日を論じている。「先の大戦でなくなったすべての戦没者を追悼し、平和への誓いを新たにする日である。」から始まっている。これらから押し並べて8月15日は反省の歴史時間、純粋精神に一瞬身をおく各個人の厳粛な記念日になっている。
驚きと落胆の社説について
8月15日終戦記念日の社説としてこれほど支離滅裂な論調も珍しい。毎日新聞社の「世界の平和作りに参画しよう」がそれである。この表題から毎日新聞社の見識を疑う。表題は、15日全国戦没者追悼式で小泉首相が「世界の恒久平和の確立に積極的に貢献する。」と述べた式辞と全く一緒ではないか。何時から毎日新聞社は小泉首相の報道担当になったのか、正気を疑う。
先ず、落胆と書いたのは、日本の8月15日は終戦記念日であるという視点が全く欠落している点である。また、驚きは、毎日新聞社の理解能力の欠如が著しいことに対してである。世界の二極化現象、侵略戦争を仕掛けている「豊かな社会」と攻撃を受けている「貧しい社会」の二分化構図の実態を、「貧しい現実の放置がテロリズムと結びついて豊かな社会を危険に陥れる実質的な弊害が予知できそうになってきたからでもある。」(社説から) と括ってしまう発想のそれこそ貧困能力、偽装能力の表現としか読み取れない。さらに読み捨てならぬ文言「日本の平和と繁栄の陰に実際にははなはだ危険で貧しい同じ地球人がたくさんいる現実を放置できなくなった」(社説から)と書かれている。問い質すが、「危険で貧しい同じ地球人」とはアフガニスタン人とイラク人そして北朝鮮人を指しているのか。毎日新聞社は明確に答えなければならない。
支離滅裂、認識不足も甚だしい主張
『合意形成の過程が大事テロとの戦いは9・11事件からアフガン戦争、イラク戦争と続きこれで終結する保証はない。国家間の戦いを前提にした日本の平和主義体制にも修正の必要は出てきている。』(社説)
「合意形成の過程が大事」は民主主義の根幹のように言われて久しい。しかし清潔、美貌的形態、内的潔癖症を建前とする日本戦後民主主義は、合意さえ出来れば何でも良いという特効薬を服用しすぎた為に、「理念」が棚上げにされその挙句、建前と本音が転倒、混在する現実を招いてしまった。
今、私達は氾濫する情報、マスコミから明確に認識を新たにしなければならないことは、現状況のアフガン戦争、イラク戦争はレジスタンスであり、「テロとの戦い」ではないということだ。テロリストはアメリカであり多国籍軍はその取り巻き応援団である事実を曖昧さがなく正確に認識することである。しかし、毎日新聞社は現在のアフガン、イラクの状況を「テロとの戦い」継続と位置づけ、以ての外である憲法改正を睨んだ論評になっている。
「理念」が問われることがなく、「言葉」の意味を拡大解釈することにより国民との意識(合意)と異にする、遊離することを避けてきた現在のマスコミは、もはや修正が効かない体制代弁者に成り下がってしまった。現在のマスコミは組織の最大利益になる追求法則を認め、戦後の過ちを省みず、戦後誓った本来の業務を放棄した結果、自ら民主主義を葬る主役になっている。この所行は再度の歴史時間軸に因って糾弾されることを願うしかない。
もう一度外交努力を
世界の平和には貢献すべきなのである。その具体的方法として米国追随もひとつの考え方だが、国連安全保障理事会の常任理事国になって和平の枠組み作りに恒常的に関与する地位を真剣に求めていくべきではないだろうか。いつまでも国連分担金の2割近くを負担し続けるだけで、発言と意思決定への参画の場を持たないのは世界に対してかえって無責任ではないだろうか。
ドイツと共に連合軍の敵国として国連から監視対象に位置づけられた日本が60年近くを経て、平和憲法を持ったままで常任理事国に入ること自体、国連の歴史を変える。戦争を放棄した国が世界の平和に関与する新しい概念を人類史に送り込む意気込みが必要ではないか。当然それはイラク戦争で無力感を味わった国連の大改革に結びつく衝撃波になるだろう。米国の行動に振り回され戸惑う世界が次の時代への光明を見いだす契機にもなる。幸い12月には国連改革の有識者委員会が報告を出す。
国連安全保障理事会改革と日本の安保理常任理事国入りの議論が高まってきた。外務省は今月初め、「国連強化対策本部」(本部長・川口順子外相)を設置し、近く担当の大使も任命する。
これまで常任理事国入り問題には慎重だった小泉純一郎首相が九月下旬の国連総会に出席し、どのように訴えるかにも関心が集まっている。
2004年08月19日
橋本周辺広域市町村圏組合議会 御中
平成16年8月16議会における、「広域ごみ処理施設建設に関する決議」に抗議すると共に再度、建設の白紙撤回を求める。
一、 地元住民無視の議会に抗議する
16日議会での決議は、一度白紙撤回になった建設計画が全く同じ内容で実施されなければならない理由を住民側に説明せず、建設は「大野地区」決定論をそのまま継承した議会本来の協議手続きを無視した住民不在の広域議会に禍根を残す決議である。
広域組合議会が出した高野口町への5項目条件は、ごみ処理施設に対するごみ共有地域住民の関心を殺ぎ、特定地域に不安を強要する決議で広域組合議会の責任回避との謗りを免れない。
一、 地元住民の「合意形成」の過程が欠落している
議会決定で大事な「合意形成」については、地元住民の大野地区ごみ処理建設反対の経緯から、一つの項目、地元大野20区の公印を揃えるのが困難な状況であること、また、三つの連合自治会全ての承諾をえることは出来ない現実を鑑みれば、今回の広域組合議会の出した決議は甚だ無責任極まりないものと言える、また、10月31日の期限を設けるのは地元住民の軽視で論外である。
一、 法手続きに則って環境アセスが行われていない
さらに今回の決議で問題なのが、昨年10月6日、広域組合議会で決議された「白紙撤回」から今日まで地元住民への説得は皆無という現況である。環境アセスが法的手続きに則って実施されていない。また、建設に当っての対策協議会の報告が広域組合議会に反映されていない現実がこのことを十分物語っている。
以上の見解から「広域ゴミ焼却場を白紙撤回させる会」は、8月16日議会の決議に対して抗議すると共に再度、大野地区ゴミ焼却場建設に対して白紙撤回を求める。
広域ゴミ焼却場を白紙撤回させる会
代表 硲 徳治
平成16年8月16議会における、「広域ごみ処理施設建設に関する決議」に抗議すると共に再度、建設の白紙撤回を求める。
一、 地元住民無視の議会に抗議する
16日議会での決議は、一度白紙撤回になった建設計画が全く同じ内容で実施されなければならない理由を住民側に説明せず、建設は「大野地区」決定論をそのまま継承した議会本来の協議手続きを無視した住民不在の広域議会に禍根を残す決議である。
広域組合議会が出した高野口町への5項目条件は、ごみ処理施設に対するごみ共有地域住民の関心を殺ぎ、特定地域に不安を強要する決議で広域組合議会の責任回避との謗りを免れない。
一、 地元住民の「合意形成」の過程が欠落している
議会決定で大事な「合意形成」については、地元住民の大野地区ごみ処理建設反対の経緯から、一つの項目、地元大野20区の公印を揃えるのが困難な状況であること、また、三つの連合自治会全ての承諾をえることは出来ない現実を鑑みれば、今回の広域組合議会の出した決議は甚だ無責任極まりないものと言える、また、10月31日の期限を設けるのは地元住民の軽視で論外である。
一、 法手続きに則って環境アセスが行われていない
さらに今回の決議で問題なのが、昨年10月6日、広域組合議会で決議された「白紙撤回」から今日まで地元住民への説得は皆無という現況である。環境アセスが法的手続きに則って実施されていない。また、建設に当っての対策協議会の報告が広域組合議会に反映されていない現実がこのことを十分物語っている。
以上の見解から「広域ゴミ焼却場を白紙撤回させる会」は、8月16日議会の決議に対して抗議すると共に再度、大野地区ゴミ焼却場建設に対して白紙撤回を求める。
広域ゴミ焼却場を白紙撤回させる会
代表 硲 徳治
2004年08月08日
袋小路の状況にもめげずに益々精力的な取り組みに何と言ったらよいのか、驚嘆にしておきましょう。ただ、ニーチェがそうだったように死期が近づくに従い能力がフル回転していく人的メカニズムが気になりますが。私は前回で紹介したドン・キホーテとニーチェは発想の原点が同じだと、それは「超人」への憧れであり、自己求心性意思の権化と推測、そのように最近、貴女のことを理解するに至っている。
「会」の発足と憲法九条を守る運動について
先ず、御大のお出ましとなった「九条の会」の事務局は、「ワールド・ピース・ナウ」であり、その事務局は「許すな 憲法改悪・市民連絡会」ということになっている。7月24日の講演会への殺到した平和を愛する善良な人々は、「7.4ピース・ナウ」パレードの参加者であり、そのまま移行したものだから、講演会のお知らせと同時に5千人のファンが申し込んだというのが現実である。
そして、現在呼びかけが効を奏しつつある。この経緯は、先日ピース・ナウで3人の逮捕者を出したのを契機に高田氏にカンパを送り、かつ今後の費用について相談に乗ると連絡しておいた、挨拶代わりに届いたのが、にこやかな9人の先生方の写真入ポスターだった訳である。
私の直ぐイメージしたのが、池田大作のポスターを送られた学会員である。笑えないこのシニカルな状況を考えれば日本人の原初的、民族的有り様がこの袋小路に至っても同じだという認識に立たざるを得ない。正に創価学会の構図である。もうそろそろご本尊崇拝、各自のミニ仏壇を自宅 (本棚) に整頓させる信条を止めたいところだが、「長いものには巻かれろ」、相変わらず裾をぞろぞろと引きずっている。
正直言って、大江さん、鶴見さん、いまさら「九条の会」はないでしょう。せめてもの良心の発露。思い立ったが吉日でもないでしょうに。とにかく共産党は後追い運動に終始している、状況に右往左往されないしぶとさが真骨頂と言わんばかりだが、一度洪水による苔落としをやらなければどうにも治まらない状況だと考えるが。国土省ですら人口洪水を考える時世である。
損得勘定に終始する「日本の団体」と「九条を守る」運動について
私達がこの春から実践した「意見広告・運動」について言えば、これはかなり地域的なこともあると思いますが、先ず組合(連合)は全く賛同の対象にならなかったことである。彼らにすれば、民主党である限り憲法改正に反対を表面化することは自己矛盾を呈することで反って正直だったといえる。また、「人権尊重、差別をなくそう」を標榜している全国的団体は、「事務局の私達は九条を守ることに賛成です。しかし、団体は民主党です」、と明言した。
これらから察するに、日本人の心は「平和」を求めるが、体はそうではないことになる。そして、この心体矛盾説は、現在日本の状況において全く矛盾することなく、生きる為の正当防衛になっている。その極端な現われが、日本を代表する小泉首相と周辺の嘘つき政治屋である。これを認めている私達周辺も大なり小なりの正当防衛基準を有しながら生きながらえている。やはり、日本人はいつまで経っても加害者意識を持つことなく歴史を刻むことになる。
2大政党制と「九条を守る」運動について
『自民・民主の「2大政党制」は私たちの政治意思を正しく反映していません。「生物も多様性−政党も多様性」』
「私たちの政治意思」について
上記したように、「人権尊重、差別をなくそう」が2大政党制を形成しつつある状況を考えれば、ここでいう「私たちの政治意思」とは少数者の意思と理解、少数者になったと言うのが正確である。「生物も多様性」が日本で本格的に論じられて15年になる。そして「共生」という言葉も定着した。しかし、その「共生」の意味もはや色あせた隷属関係を前面にでた解釈論になっている。
「政党も多様性」という場合、今日では「政権交代」を意味する言葉になりつつある。多様なあり方は先ず政権が交代することの条件を打ち出している。この解釈が市民権を得て一気に2大政党制への拍車を掛けることになった。市民権は2大政党制に味方したのである。
従って、「私たちの政治意思」は蚊帳の外に置かれたのも同然、「九条を守る」ことはご本尊を奉る運動になってしまったとはいえないか。ここから土井たか子の「正しく改憲することには賛成です」という意味不明な文言が飛び出してきた背景、冒頭で書いた「袋小路」の意味がある。また、宗教化した運動には落とし穴がある。運動と現実の乖離をどこまで埋められるか、蚊帳の外である以上、埋められない場合の覚悟も必要である。
「会」発足の前日に出鼻を挫く言及になっていますが、八方塞がりの運動展開が見えてこない状況であることは事実である。しかし、こまねいている訳にもいかず、同じような合意の宣言文の下に召集を掛けて日程のやりくりをするよりも、兎に角、今は、一人でも〈平和の声〉を上げることが「九条改正」を阻止することになると念じて、7月5日から毎週月曜日、反戦行動・チラシ配布を実践している。
「水と森と平和の声」は一人で十分実践できる。幸い3人、5人の時もあり、また、早々2回目には嬉しい意見を頂いた。同じちらしを撒くなという貴重なご意見を頂き、早速裏面は時事速報に変えた。受け取りもイラク開戦当時とはいかないがまずまずであり、特に学生、若者相手に配布することを心掛けている。おもしろいという弾みがつく実践が継続できる要因だと思う。
おもしろいと言うのは、選挙結果と同じような反応が体感でき、悲劇と喜劇が混在した精神状況にあって常にどちらでも良いとしか考えられない日常を私達が共有していることが手にとって体感できることだ。実践は「おもしろい、スリル」なものでなくては継続できない。
「会」という連なっての先人の後をたどる運動では、今日の状況を打破出来ないのは証明済みである。然りとて啓蒙活動もないだろうし、同志らしき連中と慰め合うひと時を持つほど焼きが回った訳でもあるまい。兎に角、心体が一心同体になっていない矛盾論を生きている市民に対して、白黒を明白にさせる状況を作り出すか、待つかである。
この状況に及んで、「九条」自体の言葉が喪失すると言って(大江氏)焦ることもなければ、孤立を恐れて連帯に融合、最善なる欺瞞に隠れ蓑を求めることはない。忘れてはならないのは、孤立を恐れているのは常に市民である。その際たる兆候が今日の2大政党制への弾みであり、恐れからは恐ろしい結果しか生まれないことは歴史が証明済みである。
「九条の会・おおがき」発足に向けての餞のつもりが、とんだ意見の言及になった。これも貴女に対する激励の方法書として理解して頂き、飽く迄も自己の表現、運動家というよりも芸人に徹して欲しいとの願いからである。
「会」の発足と憲法九条を守る運動について
先ず、御大のお出ましとなった「九条の会」の事務局は、「ワールド・ピース・ナウ」であり、その事務局は「許すな 憲法改悪・市民連絡会」ということになっている。7月24日の講演会への殺到した平和を愛する善良な人々は、「7.4ピース・ナウ」パレードの参加者であり、そのまま移行したものだから、講演会のお知らせと同時に5千人のファンが申し込んだというのが現実である。
そして、現在呼びかけが効を奏しつつある。この経緯は、先日ピース・ナウで3人の逮捕者を出したのを契機に高田氏にカンパを送り、かつ今後の費用について相談に乗ると連絡しておいた、挨拶代わりに届いたのが、にこやかな9人の先生方の写真入ポスターだった訳である。
私の直ぐイメージしたのが、池田大作のポスターを送られた学会員である。笑えないこのシニカルな状況を考えれば日本人の原初的、民族的有り様がこの袋小路に至っても同じだという認識に立たざるを得ない。正に創価学会の構図である。もうそろそろご本尊崇拝、各自のミニ仏壇を自宅 (本棚) に整頓させる信条を止めたいところだが、「長いものには巻かれろ」、相変わらず裾をぞろぞろと引きずっている。
正直言って、大江さん、鶴見さん、いまさら「九条の会」はないでしょう。せめてもの良心の発露。思い立ったが吉日でもないでしょうに。とにかく共産党は後追い運動に終始している、状況に右往左往されないしぶとさが真骨頂と言わんばかりだが、一度洪水による苔落としをやらなければどうにも治まらない状況だと考えるが。国土省ですら人口洪水を考える時世である。
損得勘定に終始する「日本の団体」と「九条を守る」運動について
私達がこの春から実践した「意見広告・運動」について言えば、これはかなり地域的なこともあると思いますが、先ず組合(連合)は全く賛同の対象にならなかったことである。彼らにすれば、民主党である限り憲法改正に反対を表面化することは自己矛盾を呈することで反って正直だったといえる。また、「人権尊重、差別をなくそう」を標榜している全国的団体は、「事務局の私達は九条を守ることに賛成です。しかし、団体は民主党です」、と明言した。
これらから察するに、日本人の心は「平和」を求めるが、体はそうではないことになる。そして、この心体矛盾説は、現在日本の状況において全く矛盾することなく、生きる為の正当防衛になっている。その極端な現われが、日本を代表する小泉首相と周辺の嘘つき政治屋である。これを認めている私達周辺も大なり小なりの正当防衛基準を有しながら生きながらえている。やはり、日本人はいつまで経っても加害者意識を持つことなく歴史を刻むことになる。
2大政党制と「九条を守る」運動について
『自民・民主の「2大政党制」は私たちの政治意思を正しく反映していません。「生物も多様性−政党も多様性」』
「私たちの政治意思」について
上記したように、「人権尊重、差別をなくそう」が2大政党制を形成しつつある状況を考えれば、ここでいう「私たちの政治意思」とは少数者の意思と理解、少数者になったと言うのが正確である。「生物も多様性」が日本で本格的に論じられて15年になる。そして「共生」という言葉も定着した。しかし、その「共生」の意味もはや色あせた隷属関係を前面にでた解釈論になっている。
「政党も多様性」という場合、今日では「政権交代」を意味する言葉になりつつある。多様なあり方は先ず政権が交代することの条件を打ち出している。この解釈が市民権を得て一気に2大政党制への拍車を掛けることになった。市民権は2大政党制に味方したのである。
従って、「私たちの政治意思」は蚊帳の外に置かれたのも同然、「九条を守る」ことはご本尊を奉る運動になってしまったとはいえないか。ここから土井たか子の「正しく改憲することには賛成です」という意味不明な文言が飛び出してきた背景、冒頭で書いた「袋小路」の意味がある。また、宗教化した運動には落とし穴がある。運動と現実の乖離をどこまで埋められるか、蚊帳の外である以上、埋められない場合の覚悟も必要である。
「会」発足の前日に出鼻を挫く言及になっていますが、八方塞がりの運動展開が見えてこない状況であることは事実である。しかし、こまねいている訳にもいかず、同じような合意の宣言文の下に召集を掛けて日程のやりくりをするよりも、兎に角、今は、一人でも〈平和の声〉を上げることが「九条改正」を阻止することになると念じて、7月5日から毎週月曜日、反戦行動・チラシ配布を実践している。
「水と森と平和の声」は一人で十分実践できる。幸い3人、5人の時もあり、また、早々2回目には嬉しい意見を頂いた。同じちらしを撒くなという貴重なご意見を頂き、早速裏面は時事速報に変えた。受け取りもイラク開戦当時とはいかないがまずまずであり、特に学生、若者相手に配布することを心掛けている。おもしろいという弾みがつく実践が継続できる要因だと思う。
おもしろいと言うのは、選挙結果と同じような反応が体感でき、悲劇と喜劇が混在した精神状況にあって常にどちらでも良いとしか考えられない日常を私達が共有していることが手にとって体感できることだ。実践は「おもしろい、スリル」なものでなくては継続できない。
「会」という連なっての先人の後をたどる運動では、今日の状況を打破出来ないのは証明済みである。然りとて啓蒙活動もないだろうし、同志らしき連中と慰め合うひと時を持つほど焼きが回った訳でもあるまい。兎に角、心体が一心同体になっていない矛盾論を生きている市民に対して、白黒を明白にさせる状況を作り出すか、待つかである。
この状況に及んで、「九条」自体の言葉が喪失すると言って(大江氏)焦ることもなければ、孤立を恐れて連帯に融合、最善なる欺瞞に隠れ蓑を求めることはない。忘れてはならないのは、孤立を恐れているのは常に市民である。その際たる兆候が今日の2大政党制への弾みであり、恐れからは恐ろしい結果しか生まれないことは歴史が証明済みである。
「九条の会・おおがき」発足に向けての餞のつもりが、とんだ意見の言及になった。これも貴女に対する激励の方法書として理解して頂き、飽く迄も自己の表現、運動家というよりも芸人に徹して欲しいとの願いからである。