2004年10月

2004年10月20日

「実効的な住民参加は可能か」 肱川流域委員会を巡って

新河川法に基づく「流域委員会」は住民参加の何を実現してきたか。
また、住民、市民の参加を担保できる改正であったのか。さらに公共事業への実効ある提言に今後なることが可能なのか。今回は三ヶ所における「流域委員会」を例に挙げてその方向性を摸索する、「流域委員会」を検証する為の指針に過ぎない論述である。
 
三通りの流域委員会

04年の3月に「紀ノ川流域委員会」が2年9ヶ月の審議を経て終了、また「肱川流域委員会」は6ヶ月で答申を出した。そして3年間の審議で終盤を迎えた「淀川流域委員会」、これらを比較しながら治水と住民参加を考える。

先ず、各流域委員会は、その性格、主旨が顕著に出ていることに注目しなければならない。「紀ノ川流域委員会」は「紀伊丹生川ダム」計画中止の舞台になった。また、「肱川流域委員会」はダム建設が妥当であると答申を出した。そして、審議、論議を重ねて、各問題の方向性を出さず悪戯気味に委員会、住民討論会を開催し続けている「淀川流域委員会」である。この三例の流域委員会をもって今日開催されている流域委員会の性格を断ずることは出来ないが、少なくとも概論にはなる。

両極端の性格をもった委員会が「紀ノ川流域委員会」と「肱川流域委員会」である。これほど明解な主旨の下で開催された委員会も珍しく、多分この手法は継承される。結論から言えば、国土省計画のデモンストレーションを実現させる為の最たる道具立てということである。
先例を開くという意味において、「紀ノ川流域委員会」は画期的な試みが随所に企画された。先ず、委員の選定において委員会で問題になるダム建設の是非について、地元ダム反対住民団体、同じく市民団体から選出したことである。これは人数の問題ではない。この選出から、「傍聴者発言」、「ダム建設予定地の見学」、「治水論の分科会」、「地元住民団体説明による遊水地見学会」、そして「水需要の精査」、「基本高水」に代わる「目標流量」等、現在各地で協議されている問題に対する指針が提示された。

それに比べ、「肱川流域委員会」の場合は、「ダム審議委員会」に代わる「肱川河川再構築計画案」の全面是認を目的にした、国土省計画承認委員会、旧建設省形式を踏襲した「流域委員会」であった。当然住民参加もなければ、河川整備の代替案協議もないものである。御負けに、住民の反発、抗議に対して強硬手段「公務失効妨害」を適用する、所謂「肱川流域委員会事件」が引き起こされる。伝家の宝刀の前に住民、市民はなす術も無く、委員会を唯傍観するしかなかった。そして、この事件を契機に、方向性が出来つつあった行政への住民参加の担保が一気に崩れてしまい、今後の住民、市民運動のあり方に決定的な猜疑心を増幅させる結果を招くことになった。

「淀川モデル」という流域委員会での新語を作り出した「淀川流域委員会」は上記の二例と違い、全面的な市民、住民参加、情報の全面公開と国民論議を促す徹底的な広報の下に開催されている。そして、この委員会は何らかの形で継承されるものと思われる。
 
「流域委員会」の方向性と課題

簡単に列記した三通りの流域委員会で提示された河川整備の方向性と課題について述べる。
先ず、「紀ノ川流域委員会」では、利水上の目的が無くなったとして、「水需要を精査して、必要がないと判断した場合は、ダム建設の中止も考えられる」との答弁を近畿地方整備局河川部長が明言したことである。これは画期的な発言であり、この答弁がその後あらゆるかたちで影響を及ぼす結果となった。また、治水論「「基本高水」が高すぎる論議も十分とまではいかなかったが、各委員に多少の共通認識が持てたことと、さらに何よりの成果は議論白熱中に委員長から「高過ぎる」発言が飛び出したことは驚異に値するものであった。そして「基本高水」に置き換えられた「目標流量」という言葉が定着する。

委員会の特徴としては「基本高水」の協議が本格的に論じられたことである。「肱川流域委員会」、「淀川流域委員会」も論議されなかった。「肱川」でのそれは理解できるが、「淀川」の場合は理不尽さが残る結果になっている。その点、「紀ノ川流域委員会」は河川整備計画の方向性として一応の議論を経て「目標流量」が提示されたことは、「これが高い、妥当である」ことを抜きにしても評価される。残念なことだが、方向性については、その他の委員会では出せず、課題が提示されている現状であることを認識しなければならない。
 
「淀川モデル」とは何か

「淀川モデル」を標榜する流域委員会が、実現できない問題を摸索する。もともとこの委員会は「モデル」を構想した近畿地方整備局の河川整備計画のソフト面と位置づけた事業の一環として出発している。その何よりの証拠は「淀川流域委員会」運営経費の桁違いの予算計上にある。年間、4億円近い運営経費は、各地の流域委員会の比でないことが物語っている。目的は「モデル」の構築であって、河川整備計画の協議、住民参加を担保する為に立ち上げられた委員会でないことである。

国土省の狙いは「琵琶湖」を水問題の標的に置き換えて、淀川水系で問題になっている整備計画を知ってもらう、そして論じてもらう為の場の設定を確保しただけであって、元から断じて協議による方向性を探る為の委員会ではなかった。それは、貝のような無口な専門家委員、整備局の説明を聞くだけで精一杯の市民の参加者を見れば納得できる。
委員長の「この流域委員会では基本高水のような専門的な論議をする場ではない」の発言を一言聴けばよく頷ける。

専門家の師弟関係、行政各機関関係者、利水、治水抜きの水辺環境を楽しむボランティア市民の参加で構成されている委員会に河川整備の指針を摸索せよと言っても所詮無理な話である。それを第三者が誇大広告に目が眩み、住民参加が開催している錯覚を市民に与えてしまっていることの現実を把握することなく、さらに第三者団体が追い討ちを掛ける結果になっている為、幻想を与えることになってしまった、というのが現実である。

国土省の狙いはどこまでいっても、自分たちが法律であると自負している限りにおいて計画された路線をいかなる方法を持して策を弄することしか考えないのである。同じテーブルに着いたということで議論の結果に何かを期待仕勝ちであるが、それは自惚れと幻想に過ぎない。従って、「淀川モデル」は国土省によって作られた委員会、疑似なるものと認識しなければならない。それを「実効的な住民参加の手法」と勘違いするほど危険度は増えることになる。

しかし、課題を残す結果となった「淀川モデル」が定着してきた背景に「流域委員会」ウオッチング市民団体の功績がある。淀川水系における現況の行政背景を徹底的に精査することによって、流域委員会の審議内容を専門的次元に拡張した。この動きは、整備局側も若干の考慮はあったものの、しかし、今日の委員会状況を想定はしていなかったと考える。その意味で、住民、市民運動は生きた力学を発揮することになり、整備局にとってある種の脅威にはなった。従って、その力学が「淀川モデル」を定着させる一因になったことも否めない側面ではある。

課題が残ったと言えるか「肱川流域委員会」

問答無用で始まった流域委員会では、審議内容はもとより、整備計画の課題、流域委員会のあり方等の何ものも残さず6ヶ月で終了した。山鳥坂ダム計画を策定する為のものでしかなかった流域委員会は、新河川法違反であるとの抗議、批判を意に介せず河川整備計画策定を実施した。

「肱川流域委員会事件」を受けて、日弁連が「肱川流域委員会」に異例の意見書を提出したが、猫にまたたび、お女郎に小判とは成らず、反って無視の立場を貫いた。地元住民団体は「水源連」に労を執って頂き、国土省本庁と直談判したが、全く新河川法に抵触するどころか、各整備局の地域的特性の何ものでもないと一蹴される始末であった。従って、「肱川流域委員会」がもたらしたものは、新河川法における「肱川方式」という方法を実現させる為のお献立に過ぎない結果となった。

しかし、残された課題が皆無かと言えばそうでもない、怪我の功名と言えば余りにもおこがましいが、如何に弁護士会が実効的な役割を担えないかのよい実例になったことである。弁護士が真摯に考えて黙視するしかない判断に私達が黙視するか、はたまた、違法は「運動の力関係」であるとの見解を素直に受け入れるかの課題が提示されたと理解するかである。

総論

各論の詳細が省略されている(各論において膨大な資料と貴重な発言録があり、上記の記述は全てこれに基づいている)が、これを前提にした総論は、「流域委員会」は各整備局の計画実現に向かっての手段であり、住民参加は飽く迄も国土省の手の平の域を出ないものと考えておいてよい。しかし、運動は生きものである、また、状況も予測以上の変化が起こりうるのが現実社会である。

飽く迄も、運動を実践することは、一つのステージ、運動の段階として捉え果敢に挑戦しなければダム中止の実現への何ものも得ることが出来ないことを念頭に置き、「流域委員会」が例え住民参加を担保してもそれに妄信せず、「実効力ある」とは、協議の方向性と各論の指針を担保することでしかないことをくれぐれも肝に銘じておく必要がある。

幻想に終らせない為にも、幻想を抱くことのないように地域での特性を生かした住民運動に徹することが問われている。整備局と真正面から対峙してこそ初めて住民参加という言葉、概念が生まれる。今日の状況において、国の法律による、住民が享受、担保されるものなど何もないことを運動の原点にもっていなければならないことは言うまでもないことである。
以上、紙面の関係上概略になったが、「実効的な住民参加」の内実と意義についての論考である。
                         
                               2004年10月20日
                                 岩畑 正行
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2004年10月13日

竹中平蔵特別郵政担当大臣高層マンションから眼下のホームレステントを見下ろしながら、ひたすら銭ゲバに走る、皆さん 知っていますか、1月1日に日本に住んでいなければ住民税を払わなくてもよい、住民登録を面倒だが移す必要がある、しかし、庶民の我々とは桁も額も違う、株利ザヤの名人・マクドナルド未公開株所得問題、リクルートと同じではないか、閣僚・株取引禁止法案策定を急げ。

山崎拓首相補佐官日当受け取り辞退、ど根性男、すっぽん男、小泉首相と女の3人4脚、晴れて相思相愛結ばれる、傍に居れるものならば、ちまちました報酬などさらさら頭に無い、あるは憲法改正実現のみ。

海老沢勝二会長辞めてもらいましょう、あのフテブテシサは何様のつもり、集金スタッフ労組、受信拒否増えやっていられるか。

ラムズフェルド米国防長官鍛えた肉体、衰えた頭脳、政界のターミネーター、昼はボケて、夜には正気、さすが庶民の我々とは時間軸が違う、

しかしどうだ、国民はそんな嘘もホントもお構いなし構っていられるか、ひたすら米国に追随するのみ、これが日本の国益、強いては我が身の為、ボケてきたのは国民か、ラムズフェルド米国防長官か。

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2004年10月08日

10月5日の各紙社説は全て防衛懇談会の報告書に関するものになっていた。日米再編問題を背景にした重要な指針、防衛計画大綱概略との関連で興味深い報告書と受け止めている証拠だろう。

「安全保障と防衛力に関する懇談会」は小泉首相の私的諮問機関ではあるが、在日米軍再編、自衛隊法改正、防衛計画大綱の改定、さらには武器輸出3原則の解禁も含めた総合的な日本の防衛軍備力のあり方を決定するもので、単なる懇談会ではない。なるほど、懇談会メンバーは所謂超タカ派といわれる委員は10人のうち半数を占めるが、他に常識に適った論客も居る。懇談会発起の主目的の一つが、新たな防衛計画の大綱をつくる為の屋台骨を提示することである。

しかし今の日本の常識そのものが安保条約を基盤にした国益主義であることから、その方向性は自ずと見えていたとも言える。その証拠は、タカ派の五百旗頭氏とハト派の山崎正和氏であるが、両者とも屈指のアメリカ通である。さらに柳井俊二氏は前駐米大使、トヨタ自動車社長の張 富士夫氏とくれば、自ずと如何に米国の要求をかわしながら国益に繋げるかの一点しかないと推測する方が妥当であろう。
 
社説表題「防衛懇報告―期待はずれだった」を掲載したのが、最近頓に戦前の癖、迎合主義が出てきた朝日新聞の社説である。朝日新聞は「イラク戦争が違法である」という事実を検証することも無く、この社説の冒頭で「テロや大量破壊兵器の拡散の脅威。それに立ち向かわなければならない時に、」と主張した。9・11事件、イラク戦争における「テロ」と「大量破壊兵器の拡散」の定義と意味を精査することなく、イラク問題を「テロ」の一語に簡略集約したことは、マスコミ言論会の政府見解の垂れ流しを助長、定着させた公罪の責任回避は糾弾に値する。また、全く富の無い国、アフガニスタンへのアメリカ軍の攻撃がもたらした現況へのアプローチを言論界として無視し続けている体制も然りである。

本題に戻って述べる。内容的には「基盤的防衛力」から「多機能弾力的防衛力」への転換は評価している。それは武器輸出3原則をも認めた見解になっている。問題を呈しているのは「今の世界で日米同盟がなぜそれほど大切なのか、日米の一体化を進めることが日本の平和に役立つのか、などについての検討がない。まず日米同盟の強化ありき、なのだ。」という文言である。

「日米の一体化」は日本の平和に役立たないことは、先日、アルカイダから正式に攻撃対象に格上げされた事実が、社説冒頭で主張している現実を反映している。同盟の強化はますます日本を脅威に強いるそのことは自明の理である。この共通認識を持ちながらこの期に及んで、どこに気兼ねして、日米安保の検討を促すような回りくどい言説を披露しなければならない理由が理解できない。それに比べて、最も明解に主張している社説は日経新聞である。

「冷戦時代にできた「基盤的防衛力」にかわって報告書が打ち出した「多機能弾力的防衛力」は、それに通じる発想であり、自衛隊の構造改革である。」と評価している。さらに産経新聞、読売新聞は「集団的自衛権」の行使容認を認めるよう叱咤激励文になっている。毎日新聞は、朝日新聞が産経新聞から批判を受けている日和見主義を回避する為に、ひたすら講釈論議、『「多機能弾力的防衛力」と名付けた。

だが、いずれもわかりにくい概念で、理念としての具体的なイメージはわいてこない。』とイメージ論で反って読者を煙に巻くような論述になっている。そして最後は、何時もの「国民合意」節が披露される。然らば毎日新聞に聞く、国民が合意すれば全てが認められるのか。またその合意の基準はどのように測られるのか。

つい最近、国民の6割強が反対した法案、「有事法制」が国会では9割強で可決賛成されたことは、よもやお忘れではないだろう、この整合性をどう説明するのか。それこそ概論は理解できるが、理念がないと言わざるを得ない。朝日新聞の「日和見」と大差ない巧妙さが加わっただけである。各紙社説を総論すれば、一点共通して見て取れる解釈は、「日本の自助防衛の確立」が必要であるとの見解が主張されていることだ。

つまりは、国民がそれを求めていると高を括って、権力者の代行に各紙が成り下がっている。正に戦前の様相そのものになっている。
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2004年10月04日

10月30日 水源連総会議題について  

2回の公開討論会を経て、10月中頃に3回目の討論会が予定されています。この予定が終了して一応の住民側質問予定者が全員質疑されることになると思います。質疑応答の内容は別問題として、これで整備局側はお答えしたということの実績になります。
 
公開討論会の中核は「基本高水」が高いということに集約され、近年、流域委員会で話題を提供してきた課題です。従って、山鳥坂ダム問題公開討論会から「基本高水」を考えるという内容の治水論を有友さんもしくは、2回目の報告も出している須藤さんから報告、議題が出されるものと思います。既に有友さんから連絡が入っていると思いますが。
 
今回はこの治水論に尾ひれが付きます。
ご承知のように、9月21日近藤さんが日弁連の環境水部会長の赤津弁護士に「治水と住民参加」のシンポジウムの案内に関して意見書を発信しました。参考に具体的な案内文を下記に転載します。
 
赤津弁護士記述
『私は現在、日弁連の公害環境委員会の水部会の部会長をしておりますが、水部会では、来年秋頃(暮れになるかも・・)を目処に「治水と住民参加」のテーマでシンポジウムを計画しています(場所は日弁連会館の予定で、300名程度の規模を予定しています)。
趣旨としては、河川法改正後の住民参加の状況の検証と河川および流域管理(特に治水問題)における実効的な住民参加の手法が提案できればと思っており、淀川モデルを首都圏で発信することも理由にあります。』
 最後の文言に「淀川モデルを首都圏で発信する」とあります。文言どおり、この案内メッセージは東京のあるMLに発信されました。

私が日頃から指摘している、淀川流域委員会は大いなる汚点を残したまま、そのことに各委員が全く気づいて居ないことを盾に取り、国土省最大のデモンストレーションに利用しています。ここでは詳細を省きますが、今回の赤津さんのイベントは日弁連ということもあり、非常に危険な話題提供になる恐れがあります。私は赤津さんを5年前から存知上げています。

今年の5月、大阪でのシンポジウムで肱川流域委員会の件についても論じ合いました。勉強熱心な方です。しかし、彼女のアセス法概論にしても、情報論議、テキスト解釈論に傾注し過ぎています。しかし、それは職業柄やむを得ないとしても、「実効的な住民参加の手法が提案できればと思っており、」ということになれば、次元が逸脱したマニュアル論になる可能性があります。極めて危険な行政への住民参加の問題を引き起こします。このへんが私の今回課題とするところです。

また、水源連の一つの課題「流域委員会と市民参加」でもあります。前置きが長くなっていますが、山鳥坂ダム問題の尾ひれ治水論の議題を提供したいと考えています。
 参考に述べますが、近藤さんは昨年暮れから「淀川流域委員会」詣でに御執心のこともあり、今回の赤津さんが発信されたことに韋駄天近藤の本領を発揮されたものです。赤津さんに対する近藤意見書は事前に私と協議してのことです。要するに、世間が「淀川流域委員会」に対して勘違いも甚だしい、段違いの解釈をしているところから発生した問題だと私達は考えています。
 
最終的な議題は、『「淀川流域委員会」を検証しながら、山鳥坂ダム問題における新河川法の意義』になります。
 注)「淀川流域委員会」に関しては近藤さんにお任せしますが。

 追記
 現在、私は橋本高野口のゴミ焼却場問題と御坊美浜町の機雷訓練計画問題の地元住民団体からの要請を受けている為、31日の小豆島の全国大会には残念ながら参加できません。悪しからず前もって連絡しておきます。
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2004年10月03日

8月24日、「九条の会」発足記念講演会が東京で開かれました。
この会は三つの提案を出しています。それは、各地、各分野で賛同する会を作る。全国的な講演会、学習会を開催する。講演会記録・ブックレット、ポスターを活用して全国に広げる、というものです。

「改憲」阻止に向けた運動は、今年に入り各地で新しい試みが急激に展開、選挙の背景も手伝って「護憲運動」が活発に行われてきています。「九条の会」は既に6月10日発足記者会見が行われていて、発起人9人の歴々の方々ということもあり、既に話題が全国的なものになっていた、そして記念講演会を前後して各地で「会」の結成が行われつつあると聞いていました。
昨日、知人からホームページアドレス付きの、戦中生まれの女たちによる「九条の会」結成のお知らせを頂きました。なかなか出来の良いHPです、という案内もありさっそく見ることにしました。

「護憲運動」は多様な形、内容で活動するのが最も好ましい市民的運動と常々理解しています。そして現在も私個人が出来る活動を状況に合わせて取り組む姿勢を維持しています。従って、活動の方法論を論議することは必要性のないことである。と敢えて断定しながらも、現状況で個人が取り組む、反省を踏まえて謙虚に方法を摸索する姿勢からホームページをみて、誘発された種々の思いの丈を記すことにしました。

先ず、「九条の会」が宗教化していく前兆が脳裏に浮かび、いよいよ深刻な事態を超えている、精神化しつつあると感じました。ホームページの額縁に飾られた9人の九条の眩しさは正に神々しさを連想させます。女性特有のご本尊信仰がトップページから窺えます。日本人の精神風土から、全国各地に「九条の会」が祭られ、(「こういう「9条の会」が無数に出来ると良いですね。」)、各家庭の仏壇の脇に金飾りの額縁にポスターが納められ、信仰としての地位を得ると思うだけで空恐ろしく展望なき日本の精神文化の奈落の底を想像しました。

欧米人は人殺しをする前、協会に出かけ懺悔をしてから戦地に出かける歴史的事実があります。この選択、判断は常に彼らにおいて歴史は自分たちのものであると言う誤解と錯覚に終始塗れてきたことから生じています。歴史は欧米人のものでないことを正確に認識しなければなりません。しかし、精神化する「九条」の運動は、日本人もこの誤解と錯覚に再度塗れる危険性を包含していると理解できます。

欧米日人による世界再編を連想させるに十分な要因をもっているということです。市民の運動に難癖を付けたくなる現況を理解して頂きたいことを前置きして、あえて言えば雲行きの悪い国民的運動になりかねない、ご本尊、お守り運動になる可能性、また歴史的にお守り信仰が「九条御本尊」になることに対しての懸念を抱かざるを得ません。

この場合、事務局の見識を問うよりも、9人の日本人に対する思い上がり、懐かしい階級意識の知識人根性が丸見えになっているところに起因します。それでも広がりがもてれば良いという意見が現在左翼的、より市民的路線の平和運動が今風であるとの主張になっています、ところが市民はここが岐路になっていることの理解が出来ないようです。つまり、掲げる、祭り上げる運動はお釈迦になることを恐れて巧妙な日本人は直ぐに額縁に入れた神格化運動に転化させてしまうところです。

聖徳太子の時代から、三つ子の魂、精神風土は変わっていない、本音、建前の二重構造混在型が主流なのです。直接対決の時期を察することもなく、お念仏を唱えて善人ぶる、正義感ぶることは金輪際止めないと、とても「九条を守ろう」最後の砦を死守できないことを学習する必要があると思います。また、その前座として、言葉の復権を目指すことが最重要課題であることを認識しなければならないでしょう。

既に死語になっている、なりつつある言葉、「変革」、「阻止」、「復権」、「蜂起」その他、特に「九条を守る」ことの現実可能性は、「蜂起する」、「阻止する」ことでしかないことが直言できます。現在私達が考えなければならないことは、言葉の復権(認識)を新たな出発とすることです。この推論は「九条を守ろう」から飛躍、次元が違うように思われますが、あえてこの機会に先物論として述べておきます。

現実的には日米地位協定の破棄という言葉の復権が出来ないとすれば、「見直し」、さらに今実践しなければならない「自衛隊法改正」、「恒久法制定」の反対運動を全国的に繰り広げること等が先決問題として挙げられます。今直ぐの問題を棚上げにしては何事も成形しません。9月は最重要月間です。

小泉首相の国連演説から一気に「自衛隊法」の改正、「恒久法」の論議が浮上します。この法案は来年の自民党による「憲法改正案」発表と緊密に関係して国会審議されます。これに私達がどう立ち向かうか、「改正」反対、阻止する為の要になります。徹底抗戦と呼ぶに相応しい状況であることをどれだけの私達市民が理解できるかに「九条を守る」運動は懸かっています。この状況だからこそ、現在、私は街頭に立ちちらし配布を個人の実践としています。

合言葉は、「皆で街角に立とう」これが実現できれば、世の中、何かおかしいぞ、何か変わりつつあるのかという空気が伝えられる可能性が出てきます。自民、公明、民主各党贔屓の市民に直接対決してこの空気、気配を伝えることが可能性につながると念じて、街角に立とう、決して直接対決を避けてはなりません。この指とまれでは、改憲への勢いはとまりません。私達運動をする実践人が「守る」ということは、この場合、戦争法を作らせない運動を実践することです。「新ガイドライン」、「周辺事態法」、「有事法制」、日本が戦争できる法律を私達は全て許してきました。

現実に先日の米軍ヘリ墜落事故の米軍、日本政府の対応を見て、戦争とその周辺では「人権は守られない」ということが証明されました。この明らかな歴史的事実を鑑みることなく、民主党は「国民の人権と財産の保護」を主張して「有事法制」に賛成しました。権力に目が眩み、思考停止になったのでしょう。よく考えればこの地点から思考停止が連続的なものになり、自民党のそれと変わらない現状になっています。岡田代表の訪米での会見では、国連決議の下では、多国籍軍の責任ある一員として「汗と血を流してでも」集団的自衛権の行使を明言しました。

第三権力者マスコミがこの民主党の思考停止による肥満現象を、「二大政党制」、近代化という日本人のコンプレックスをくすぐりその方向性を無責任に是認してしまいました。その結果は昨年と今年に実施された二回の選挙から現実のものとして始動したことを私達は再確認することになった訳です。これら全てを反省して、さらに過去の私達が無関心でいた自戒をこめて、一極集中、「恒久法」制定反対に立ち上がらなければ「九条」の明日はないと考えます。憲法、「憲法九条」を学習するとよく言います。

しかし、九条は学習するものではなく、判断するものです。市民は常に見てみぬ振りを決め込んでいるだけです。これを常に利用しているのが、政府の既成事実を積み重ねるという先手必勝策です。「自民党は日本人そのものです」と歴代首相が繰り返し述べるところにこの日本人気質を先読みしているのです。既成事実の積み重ね、現実を目の当りにして、いつも沈黙を金としてきた正直者がいつも悲劇をみるという構図は歴史的に引き継がれているのです。

最後に9人の「九条の会」に問い質したい。現況において旧来の「九条の会」は確かに老朽化した地域もあることは事実です。しかし、緻密に歳月を掛けた運動展開を現況繰り広げているのも事実であり、現在の状況に何らかの歯止め的運動を担ってきた歴史的事実、時間軸があったことも事実です。9人の「九条の会」の全国的な広がりを願っての運動であるとすれば、当然、市民の運動として、「横の連帯」を摸索できなかったのか不可思議です。

仁義なき戦いではないのですから、この機会に「声」を掛け合って全国的な運動に盛り上げる過程が担保されていて当然だと考えます。9人の「九条の会」と洒落込んでいる状況ではないと察するのは私だけでは無い筈です。この「九条の会」、御題目は「憲法9条、いまこそ旬」と言葉が掲げられています。歴々とした方々の文言には先程の洒落と同じく、気品ある洗練された言葉の格調を感じますが、「旬」という言葉が気になります。

私の浅知恵ですが、「旬」は政の儀式、状況の一番よい時期、さらに、季節で象徴されるように「変り目」を意識させます。所謂、この運動が儀式化しないか、「変り目」が「改正」にならないか、また、よい時期は自民党にとっても最もよい時期である訳です。これらが全て私だけの下種の勘繰りであることを祈るばかりです。
兎に角、市民の運動であるとすれば、「九条の会」の「横の連帯」は避けてはならないと考えます。

以上が、「憲法9条改正」反対に連帯する実践人から2004年8月25日現在における9人の「九条の会」について言及した私語です。
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