2006年09月
2006年09月23日
安倍政権誕生と同時に日本の「核武装論」が現実味を帯びてきた。元々、安倍氏は祖父岸信介元総理の自衛の核兵器保有は合法であるとオウム返ししてきている訳だが、単なるイデオロギーとして受け止め、非核三原則、NPTにより核保有はありえないという政府答弁を踏襲する立場を明言している。しかし、総裁就任後の変わり身はある。私達は、安倍氏の陰の超鷹派振幅ぶれを覚悟しておく必要があるだろう。
9月18日毎日新聞の「発信箱」に「美しい国の核武装」というコラムが掲載されている。都心の書店で「日本核武装の論点」(PHP研究所・編集中西輝政氏)が平積みされていることや、その前に発表された中曽根元首相の「21世紀の日本の国家像について」、さらに3月、麻生外相訪米での「北朝鮮が核開発を続ければ、日本も核武装しなければならない」という「核武装宣言」などが紹介されている。所謂、安倍政権では、単なるイデオロギーがそうでない現実の状況が書かれているのだ。
本の出版も主張も自由が保障されている訳だから別段取り立てて騒ぐ必要は無い。しかし、私としては時期的に気になる記事である。というのは、前回「虚像安倍晋三」で「助っ人桜井よし子」の節で、「次期政権の課題は・・・後日言及する」と書いたことに極めて関連しているからだ。というのは、安倍氏自身が信奉するイデオロギー関係者、助っ人から、最近の安倍氏は小泉首相の二の舞になるのではないかという懸念の声が随分と聞かれ、また、それを巡って関係者の間でしっくり行っていないということも囁かれている諸事情がある。小泉首相路線の「在日米軍再編」、「郵政民営化」、さらに、アメリカの指摘を受けている遊就館の展示説明文の修正など、岡崎久彦氏8月24日産経「正論・遊就館から未熟な反米史観を廃せ」で論じている親米、媚米方針のことである。そこで、関係者の結束を図る意図もあって、中西輝政氏編集での「日本核武装の論点」(PHP研究所)、日本の主体性回復の実現は自主防衛でしかないと花火を打ち上げたというのが私の下種の勘繰りである。
「核武装宣言」の背景と経緯
そこで、安倍政権誕生の機に、「核武装宣言」の背景と経緯について述べてみる。
現在、世界の軍事的脅威の筆頭に上げられるのは、中国の軍事増強政策であり、日本にとっても回避できない外交上の問題になっている。既に米国にとっては友好、敵国何れの意味においても目の上の瘤で無視できない大国としての認識を持たざるを得ないというのが現実である。その注視力はもはやイスラエルを足手まとい、邪魔になってきていることからも推測される(決定的に表れたのが、今回のヒズボラ戦でのイスラエルの敗北という現実)。
さらに、米国の世界的軍事再編が中国に対するものでもあるとしたら、イスラエルと同様に同盟国である日本も厄介な国でしかなく、対中国包囲網の一環として「在日米軍再編」を日本は真剣に再考する必要がある。用心棒としての核抑止力下の従属に甘んじている訳にはいかないということだ。米国気質はアングロサクソン気質より以上にプラグマティズムの浸透そのものの国であることは、昨年から囁かれているイギリスとの別離からも窺い知ることができる。要するに、数十年後の世界勢力図はアメリカと中国の特化された帝国同士になり、中国とは戦争をしないという図式のことである。
現在、日本は憲法9条形骸化と安保条約形骸化が深刻な問題になっている。安保条約に関しては、長期的基地提供の条約以上の効果的評価を政府自体がこれも長期的に怠ってきた。現実路線として北朝鮮からの攻撃に対しては、アメリカは集団的自衛権を行使するが、中国からの攻撃に対しては行使しない選択肢にあるという付けの状況を生んでいる。
実は、この問題は昨年から日本の自主防衛論者が中国の台頭を最大の理由に一気に加速させた経緯がある。今年になり雑誌「正論」は、季刊誌別冊「正論」第1号タイトル「軍拡中国との対決」を出版している。巻頭を飾っているのが、「宣戦布告」でお馴染みの石原慎太郎氏である。タイトルは特集に相応しい「封じ込めの大戦略を持て」になっている。内容は冒頭に『新しい危機構造の到来の中、自らの「立国」のために我々は何をすべきか。米の「核の傘」に安逸を貪ってはならない』と書かれている。35年前からの持論「日本は核武装すべきである」の結論に至る訳である。
見解的な新見は「アメリカは中国に勝てない」と「日本のためにもインドの成長造成を援けよ」である。但し、石原氏はここでの論調が現況(7月5日、北朝鮮ミサイル発射訓練)で如何に重大な課題であるかを主張する為に、8月7日産経新聞エッセイ「日本よ」で同じ論調、内容文を書いている、タイトルは「いかに備えるか」。
中曽根氏の提案
ここで紹介している「日本核武装の論点」(編集中西輝政氏・PHP研究所)は、出版されたばかりで残念ながらいま私の手元にはなく、せいぜい出版元のPHP研究所のサイト案内しかみることができない。しかし、出筆している論客の諸氏の名前(「正論」を支える論陣達、桜井よし子、日下公人、伊藤貫、兵頭二十八諸氏)からは最近の主張からも内容が判断できるものである。多分中西輝政氏の解説だと思われるがサイトの紹介文は「現在の日本を取り巻く国際環境は90年代と比べて激変している。2006年7月5日に7発のミサイルを発射した北朝鮮にしても、今世紀に入ってから核兵器の開発・保有を宣言していることは周知の通りである。
核弾頭を搭載した北のミサイルが米国にも届くとなれば、犠牲を覚悟してまで米国は日本を守るだろうか。」になっている。正しく、この論考で問題にしている課題そのものを記述している。さらに驚くことは、販売に合わせたかの如く9月5日に中曽根氏の記者会見「米国の態度が必ずしも今まで通り続くか予断を許さない。核兵器問題も研究しておく必要がある」と発表されマスコミで話題になり出版に花を添えた形になった。ここで言う「研究しておく必要がある」は、即ち、あらゆる不測の事態に備えて日本が防衛力として核兵器を持つべきだという提案である。
また、この手の不吉な広がりは直ぐに増幅現象を起こすものだ。「核武装宣言」を裏付けるような国際的ニュースが20日東京新聞で報じられている。「核心」のコーナーで論じられている記事は、「ウィーンで十八日に開幕したIAEAの創設五十回目の記念総会。演壇に登った松田岩夫科学技術担当相は、核拡散抑止のための日本の新提案「IAEA燃料供給登録制度」を英語で力強く読み上げた。近い将来の核燃料や関連技術の輸出に向けて、日本が新たな一歩を踏み出した瞬間だ。」というもので「スタンバイ・アレンジメント・システム」というらしい。
そして、最後の下りは「日本は国内でウラン濃縮も核燃料製造もやっており、潜在的な能力はある。原子力技術で日本は世界のトップランナーだ。原子力委員会などでよく話し合う問題だ。」と結んでいる。もはや、日本の核開発は、国内は言う迄も無く国際的にタブーではなくなったと言える。
「核武装宣言」は、7月5日、国民に対してショック療法になったミサイル発射問題を機に、紹介した執拗な石原核武装論、中曽根氏提案、さらに「日本核武装の論点」出版と安倍政権誕生と同時多発的に沸騰した。北朝鮮のミサイル問題に対しては、ミサイル防衛(MD)システムの導入を現実路線として推進しているが、これは米軍指揮権の下での対抗策であり、且つその精度にやや疑問符の懸念が上がっている。それよりも何よりも自主防衛論者は、アメリカ的ミサイル防衛ではなく、核武装が唯一の先制攻撃的有効な防衛手段であると考えている。現実にテーブルに載せる段階はやはり北朝鮮が核実験を実施した時だろう。この意味で麻生氏発言は的を射たものである。
核ミサイルを使えない現代戦争
アメリカは、近年終始苦戦を強いられる戦争しかできない事由に、核爆弾を使用できないことが挙げられている。爆破規模の大きさが問題視されるからである。特に地理的な問題が最重要事項に考えられる。冷戦構造での大型原爆は現在全く意味のない木偶坊爆弾として埋蔵されているのが現実で、最近は軽量小型原爆の製作に余念がないといわれている。即ち、「張子の虎」も老衰の故に臨終したということだ。
北朝鮮の核の選択
北朝鮮が強行独自路線で核実験を行い、いわゆる核保有国の仲間入りすることは十分ありうることだ。そして、現在の構図としては、それを受けて日本も核武装する可能性は大だと仮定しよう。しかし、現在北朝鮮を取り巻く世界状況は、最終的に中国の指導もしくは6カ国協議の範疇であれ、北朝鮮の独自権限をも変えさせる外交手段をもっている。仮定として北朝鮮が一時的にしろ核保有を放棄した場合、日本はどうするのかということだ。北朝鮮は如何なる国家政策の変更もお構いなしの場当たり的政策を延長しても何ら不思議ではないし、国際世論の笑われ者にもならない。
しかし、日本は世界の世論の見守るなか戦後一貫して非核三原則を世界にアピール、核拡散防止条約(NPT)批准を遵守して外交政策を展開してきた先進国である。従って、外交政策を場当たり的に変更することは、形骸化した憲法9条を完全に放棄したことですと世界に知らしめることになり、戦後61年間培ってきた屁理屈解釈を全く無に帰すことになる。結果的には、安保条約の仮死状態を超えた外交政策の自殺である。
「核武装宣言」の現実
自主独立を獲得する為の「核武装」は、一時凌ぎの従来型外交手段の最たるもので、拙速論議の惰眠を貪る国の怠慢以外の何ものでもない。世界的、大局的見地から判断した場合、日本「核武装」の現実は、アジアとアメリカの関係を現在より以上に緊迫化した脅威の状況を自ら設定することになる。
従って、「核武装」は、日本の法治国家の否定、外交の自殺しかもたらさない。「日本核武装の論点」の出版、「正論」諸氏の願望は飽く迄も個人の範疇のもので、非現実の「核武装論」は国を脅威に晒す何ものでもない以上、それを国家の幻想に換えてはならない。言葉を最大の凶器にしない為に、これからも「正論」諸氏には、言葉は「破壊」ではなく「創造」であることを執拗に語っていかなければならない。
(平和の声 通信【格物致知】2006年9月23日)
9月18日毎日新聞の「発信箱」に「美しい国の核武装」というコラムが掲載されている。都心の書店で「日本核武装の論点」(PHP研究所・編集中西輝政氏)が平積みされていることや、その前に発表された中曽根元首相の「21世紀の日本の国家像について」、さらに3月、麻生外相訪米での「北朝鮮が核開発を続ければ、日本も核武装しなければならない」という「核武装宣言」などが紹介されている。所謂、安倍政権では、単なるイデオロギーがそうでない現実の状況が書かれているのだ。
本の出版も主張も自由が保障されている訳だから別段取り立てて騒ぐ必要は無い。しかし、私としては時期的に気になる記事である。というのは、前回「虚像安倍晋三」で「助っ人桜井よし子」の節で、「次期政権の課題は・・・後日言及する」と書いたことに極めて関連しているからだ。というのは、安倍氏自身が信奉するイデオロギー関係者、助っ人から、最近の安倍氏は小泉首相の二の舞になるのではないかという懸念の声が随分と聞かれ、また、それを巡って関係者の間でしっくり行っていないということも囁かれている諸事情がある。小泉首相路線の「在日米軍再編」、「郵政民営化」、さらに、アメリカの指摘を受けている遊就館の展示説明文の修正など、岡崎久彦氏8月24日産経「正論・遊就館から未熟な反米史観を廃せ」で論じている親米、媚米方針のことである。そこで、関係者の結束を図る意図もあって、中西輝政氏編集での「日本核武装の論点」(PHP研究所)、日本の主体性回復の実現は自主防衛でしかないと花火を打ち上げたというのが私の下種の勘繰りである。
「核武装宣言」の背景と経緯
そこで、安倍政権誕生の機に、「核武装宣言」の背景と経緯について述べてみる。
現在、世界の軍事的脅威の筆頭に上げられるのは、中国の軍事増強政策であり、日本にとっても回避できない外交上の問題になっている。既に米国にとっては友好、敵国何れの意味においても目の上の瘤で無視できない大国としての認識を持たざるを得ないというのが現実である。その注視力はもはやイスラエルを足手まとい、邪魔になってきていることからも推測される(決定的に表れたのが、今回のヒズボラ戦でのイスラエルの敗北という現実)。
さらに、米国の世界的軍事再編が中国に対するものでもあるとしたら、イスラエルと同様に同盟国である日本も厄介な国でしかなく、対中国包囲網の一環として「在日米軍再編」を日本は真剣に再考する必要がある。用心棒としての核抑止力下の従属に甘んじている訳にはいかないということだ。米国気質はアングロサクソン気質より以上にプラグマティズムの浸透そのものの国であることは、昨年から囁かれているイギリスとの別離からも窺い知ることができる。要するに、数十年後の世界勢力図はアメリカと中国の特化された帝国同士になり、中国とは戦争をしないという図式のことである。
現在、日本は憲法9条形骸化と安保条約形骸化が深刻な問題になっている。安保条約に関しては、長期的基地提供の条約以上の効果的評価を政府自体がこれも長期的に怠ってきた。現実路線として北朝鮮からの攻撃に対しては、アメリカは集団的自衛権を行使するが、中国からの攻撃に対しては行使しない選択肢にあるという付けの状況を生んでいる。
実は、この問題は昨年から日本の自主防衛論者が中国の台頭を最大の理由に一気に加速させた経緯がある。今年になり雑誌「正論」は、季刊誌別冊「正論」第1号タイトル「軍拡中国との対決」を出版している。巻頭を飾っているのが、「宣戦布告」でお馴染みの石原慎太郎氏である。タイトルは特集に相応しい「封じ込めの大戦略を持て」になっている。内容は冒頭に『新しい危機構造の到来の中、自らの「立国」のために我々は何をすべきか。米の「核の傘」に安逸を貪ってはならない』と書かれている。35年前からの持論「日本は核武装すべきである」の結論に至る訳である。
見解的な新見は「アメリカは中国に勝てない」と「日本のためにもインドの成長造成を援けよ」である。但し、石原氏はここでの論調が現況(7月5日、北朝鮮ミサイル発射訓練)で如何に重大な課題であるかを主張する為に、8月7日産経新聞エッセイ「日本よ」で同じ論調、内容文を書いている、タイトルは「いかに備えるか」。
中曽根氏の提案
ここで紹介している「日本核武装の論点」(編集中西輝政氏・PHP研究所)は、出版されたばかりで残念ながらいま私の手元にはなく、せいぜい出版元のPHP研究所のサイト案内しかみることができない。しかし、出筆している論客の諸氏の名前(「正論」を支える論陣達、桜井よし子、日下公人、伊藤貫、兵頭二十八諸氏)からは最近の主張からも内容が判断できるものである。多分中西輝政氏の解説だと思われるがサイトの紹介文は「現在の日本を取り巻く国際環境は90年代と比べて激変している。2006年7月5日に7発のミサイルを発射した北朝鮮にしても、今世紀に入ってから核兵器の開発・保有を宣言していることは周知の通りである。
核弾頭を搭載した北のミサイルが米国にも届くとなれば、犠牲を覚悟してまで米国は日本を守るだろうか。」になっている。正しく、この論考で問題にしている課題そのものを記述している。さらに驚くことは、販売に合わせたかの如く9月5日に中曽根氏の記者会見「米国の態度が必ずしも今まで通り続くか予断を許さない。核兵器問題も研究しておく必要がある」と発表されマスコミで話題になり出版に花を添えた形になった。ここで言う「研究しておく必要がある」は、即ち、あらゆる不測の事態に備えて日本が防衛力として核兵器を持つべきだという提案である。
また、この手の不吉な広がりは直ぐに増幅現象を起こすものだ。「核武装宣言」を裏付けるような国際的ニュースが20日東京新聞で報じられている。「核心」のコーナーで論じられている記事は、「ウィーンで十八日に開幕したIAEAの創設五十回目の記念総会。演壇に登った松田岩夫科学技術担当相は、核拡散抑止のための日本の新提案「IAEA燃料供給登録制度」を英語で力強く読み上げた。近い将来の核燃料や関連技術の輸出に向けて、日本が新たな一歩を踏み出した瞬間だ。」というもので「スタンバイ・アレンジメント・システム」というらしい。
そして、最後の下りは「日本は国内でウラン濃縮も核燃料製造もやっており、潜在的な能力はある。原子力技術で日本は世界のトップランナーだ。原子力委員会などでよく話し合う問題だ。」と結んでいる。もはや、日本の核開発は、国内は言う迄も無く国際的にタブーではなくなったと言える。
「核武装宣言」は、7月5日、国民に対してショック療法になったミサイル発射問題を機に、紹介した執拗な石原核武装論、中曽根氏提案、さらに「日本核武装の論点」出版と安倍政権誕生と同時多発的に沸騰した。北朝鮮のミサイル問題に対しては、ミサイル防衛(MD)システムの導入を現実路線として推進しているが、これは米軍指揮権の下での対抗策であり、且つその精度にやや疑問符の懸念が上がっている。それよりも何よりも自主防衛論者は、アメリカ的ミサイル防衛ではなく、核武装が唯一の先制攻撃的有効な防衛手段であると考えている。現実にテーブルに載せる段階はやはり北朝鮮が核実験を実施した時だろう。この意味で麻生氏発言は的を射たものである。
核ミサイルを使えない現代戦争
アメリカは、近年終始苦戦を強いられる戦争しかできない事由に、核爆弾を使用できないことが挙げられている。爆破規模の大きさが問題視されるからである。特に地理的な問題が最重要事項に考えられる。冷戦構造での大型原爆は現在全く意味のない木偶坊爆弾として埋蔵されているのが現実で、最近は軽量小型原爆の製作に余念がないといわれている。即ち、「張子の虎」も老衰の故に臨終したということだ。
北朝鮮の核の選択
北朝鮮が強行独自路線で核実験を行い、いわゆる核保有国の仲間入りすることは十分ありうることだ。そして、現在の構図としては、それを受けて日本も核武装する可能性は大だと仮定しよう。しかし、現在北朝鮮を取り巻く世界状況は、最終的に中国の指導もしくは6カ国協議の範疇であれ、北朝鮮の独自権限をも変えさせる外交手段をもっている。仮定として北朝鮮が一時的にしろ核保有を放棄した場合、日本はどうするのかということだ。北朝鮮は如何なる国家政策の変更もお構いなしの場当たり的政策を延長しても何ら不思議ではないし、国際世論の笑われ者にもならない。
しかし、日本は世界の世論の見守るなか戦後一貫して非核三原則を世界にアピール、核拡散防止条約(NPT)批准を遵守して外交政策を展開してきた先進国である。従って、外交政策を場当たり的に変更することは、形骸化した憲法9条を完全に放棄したことですと世界に知らしめることになり、戦後61年間培ってきた屁理屈解釈を全く無に帰すことになる。結果的には、安保条約の仮死状態を超えた外交政策の自殺である。
「核武装宣言」の現実
自主独立を獲得する為の「核武装」は、一時凌ぎの従来型外交手段の最たるもので、拙速論議の惰眠を貪る国の怠慢以外の何ものでもない。世界的、大局的見地から判断した場合、日本「核武装」の現実は、アジアとアメリカの関係を現在より以上に緊迫化した脅威の状況を自ら設定することになる。
従って、「核武装」は、日本の法治国家の否定、外交の自殺しかもたらさない。「日本核武装の論点」の出版、「正論」諸氏の願望は飽く迄も個人の範疇のもので、非現実の「核武装論」は国を脅威に晒す何ものでもない以上、それを国家の幻想に換えてはならない。言葉を最大の凶器にしない為に、これからも「正論」諸氏には、言葉は「破壊」ではなく「創造」であることを執拗に語っていかなければならない。
(平和の声 通信【格物致知】2006年9月23日)
2006年09月17日
いよいよ安部政権が誕生する。8日総裁選告示と同時に世間の関心ごとは、組閣と自民党役員人事を巡っての派閥間抗争一色になっているのが現実である。既にマスコミは安部晋三氏自身に政権構想、省庁再編、役員人事についての見解を質している。手回しのよいのは結構だが、こと安部晋三氏の政歴を見る限りでは、手回しのよさ(本人の意図とは別に)が特化されているように考えられる。特化原因については後述するとして、只々残念なことは、私達はこの誕生劇に単なる蚊帳の外の傍観者でしかなく、総裁選の結果を清々粛々と受け止め諦めるしかないということだ。しかし、それでは余りにも脳がなさ過ぎると思われる方々と、然らば少なくとも安部内閣での私達市民の抗する方法はということになれば、やはり、個々人の覚悟の有様を決めておくことが先ずもって肝要かと考える。安部内閣による軍事政権化生活環境での「覚悟」を準備することは、予期せぬ突然の透明無言の圧力による慌て、脅え、怯みの対処方法として、防災訓練ではないが極めて有意義なことである。国民保護法ではないが、備えあれば憂いなし的発想もあるとのことだ。また、例え、遠吠えに過ぎなくても当座の気休めにはなるだろう。さらに、「知」はいざ鎌倉の時、思わぬ「力」になることもある。
安部政権誕生の確実性
現段階で既に国会議員の8割、地方票の7割が安部氏支持を表明している。投票数で言えば、国会議員票は320票、地方票210票が確実視され、1回目の投票で過半数に達し当選確実となる。
詳細情報は「自民党総裁の選出方法・役割」のサイトを参照。
シラケ総裁選のシラケ組閣人事予想
甘利明氏(「安倍応援隊」事務局長57歳)と山本有二氏(「再チャレンジ議連」会長54歳)の入閣決定。中川秀直氏(62歳)の幹事長確実、柳沢伯夫氏(「選対本部長」71歳)が財務相有力候補。
久間章生総務会長(津島派65歳)、公明党からは冬柴鉄三(70)の入閣決定(総務か経産)。
官房長官候補は与謝野馨氏(無派閥68歳)、石原伸晃氏(49歳)、塩崎恭久氏(55歳)、町村信孝氏(森派61歳)、細田博之氏(62歳)ら。若林正俊氏(森派72歳)、溝手顕正氏(丹羽・古賀派64歳)等。
また、麻生外務大臣の留任説もある。
安部ブレーン政治の人派
ブレーン5人組み(政策提言有識者グループ)
伊藤哲夫(日本政策研究センター所長)・島田洋一(福井県立大教授)・中西輝政(京大教授)・西岡力(東京基督教大教授)・八木秀次(高崎経済大教授)
有識者特別顧問
岡崎久彦(岡崎研究所所長)・尾山太郎(政治評論家)
安部支援民間団体
「立ち上がれ!日本・ネットワーク」(草の根保守ネットワーク)
呼びかけ人はブレーン5人組の他に、西尾幹二(評論家)・佐藤勝巳(救う会)・山谷えり子(衆議院議員)他。
安部政権を支える同期議員の会11人・「安部晋三さんを支える会」
会長佐田玄一郎、石原伸晃、他
特別委員・下村博文衆院議員。
安部政権を支える外交外務省グループ
加藤良三(駐米大使)・谷内正太郎(事務次官)・斎木昭隆(駐米公使)・河野紀元(駐独大使)
・河野雅治(総合外交政策局長)。
自民党の安部氏推進シンクタンク
2005年に立ち上げた自民党の〈シンクタンク2005・日本〉が基盤になっている。
参照・「シンクタンク2005・日本」の研究成果の報告受ける 党改革実行本部
・安倍氏推進の自民政策機関
自民党の「シンクタンク2005・日本」
安全保障と情報収集グループ(別名称、警察官僚「3人衆」)
漆間巌警察庁長官、三谷秀史情報官、北村滋警察庁外事課長(警察庁関係者)
財界グループ
葛西敬之会長(JR東海)、の西岡喬会長(三菱重工)、相原宏徳会長(宇宙通信)、的場順三前理事長(大和総研)、親戚の牛尾治朗会長(ウシオ電機)、森永製菓名誉会長(奥さんの親父)
本当のブレーン
四谷のフィクサーA(政界フィクサー)[現在マスコミ総動員で探索中]
安部政権の危険性と国民の終末論
危険性について
マスコミは、また国民はどうして「金持ち」を血統、毛並みの良さとして羨望を全面的に喧伝するのか。人間社会において血統書を全面的に押し出して構築する関係は、もはや戦後教育の建前も否定したものである。既に「格差社会は当たり前」と国民が降参した現況でとやかくいうのも憚れるが、もう一度冷静に国民は考える時期にきているのではないか。
血統書に裏打ちされる世襲制度は日本の近代化という化け物に身を被い、取り返しのつかない負の歴史を刻んだことは未だ記憶の範疇ではないか。127代目か3代目か、それをどうしてマスコミは「プリンス」と呼称したがるのか。マスコミが国民に対して「政界のプリンス」と刷り込みすることによって、実はそれを真に受けたのが安部氏自身であったことはよくある話である。そしてその結果を静粛に国民は身につけるのだ。今回の総裁選においても、国会議員、一般党員の安部氏支持の根拠は政策、構想に対するものではなく、国民的支持があるという、マスコミの模造話(プリンスという虚像)を選択の基準にしている。自民党員全てが安部氏の出陣書「美しい国へ」を読んで賛同した訳ではないだろう。
「政界のプリンス」と圧倒的支持の背景は、完全に計画された自民党の総理誕生劇であることを知る必要がある。即ち、自由民主党結党理念、「自主憲法の制定」がそれである。結党50年、昨年悲願の新憲法草案を発表した。正に安部氏の政治活動そのものがこの制定に体現される歴史的時間軸をもつ機会に出会ったという状況が誕生劇の起因でもある。仕掛けたのは小泉首相である。小泉首相は就任後、耽々とその機会を狙い、当時亀井静香氏周辺の安部氏を引き寄せた。
大臣秘書官の経験しかない安部氏を、幹事長、官房副長官、官房長官と正に帝王学そのもの、ミッションスクール卒業式の合格総裁試験に臨ませた。風潮的に小泉政権の傀儡かと揶揄される理由は、「美しい日本へ」を読めば理解できるが、完全に小泉政権の継承でしかない政策理念しか持ち合わせていないことからも伺われるが、もう一つ確信的な事実がある。それは、前回から指摘している小泉首相のやくざ的「度胸試し」と小泉氏自身の任侠人生からくる小泉流「義理」と「人情」が成せる技であったということだ。小泉首相の「非情」さがよく取り立たされるが、それは、私達の判断で、彼らの尺度ではそうではないらしいのだ。以前からの森氏との連携、森氏の安部氏推薦人代表を了承する了見は小泉氏流の義理と人情だと解釈しなければならない。さらに小泉首相の周到な指名劇は、実は、「自民党をぶっ壊す」と常に寝言のように繰返しているが、しかし、最後はきっちりと自民党議員の方々が納得せざるを得ない状況を提示している。自民党保守正流を位置づける、福田派、安部(晋太郎)派、森派
小泉(派)、そして安部晋三首相とその正流跡目相続の実現がそれを物語っている。これで、立派に亡き安部晋太郎氏へ義理も果たせたし、安部晋三氏に恩を売った訳である。これで完全に小泉大親分になった訳だ。戦後首相伝にあって、奇才小泉首相にはそれだけの知量があったということだ。
しかし、善く善く考えなければならないことは、一国の総理を選出するのに、この様で全うな民主国家と言えるかというだ。政策論議以前に総裁が決まる状況はファシスト前夜社会を髣髴とさせる臭いが充満していると指摘しなければならない。今回の世襲主義的総裁選挙は、森内閣誕生劇の密室談合指名と何ら変わることのない自民党の最も自民党的体質を露見したと言える。「ぶっ壊したはずの自民党」が単なる化粧直しに過ぎなかったということだ。三つ子の魂百までとは自民党そのものを言い表している。
今回の総裁選は、安部氏自身がいつも圧制野蛮国と槍玉にあげる北朝鮮キム政権のお世継ぎ形式となんら変わらないことを安部氏自身おくびにも出さず、意味不明な自書「美しい国へ」の出版とか、長グツ姿で稲刈りして人気を得ようとする態度はどう考えても不自然である。この不自然さが安部晋三氏の怖さ、危険な政権に繋がっていく。辺見庸指摘の「糞バエ・マスコミ」が「憲法改正」、「教育基本法改正」、「自衛隊法の改正」で集団的自衛権の行使を明記、日本版CIA設立、安全保障会議構想等を言及したと大騒ぎに書き立てるが、全て小泉政権下の既定路線ではないか。そのような継承された政策の進捗については、然程怯えることはない。安部晋三氏の危険は、政治家として有限実行する時にその本質にある「声なき声」以外の完全否定を躊躇わず実施することだ。所謂、虚仮威しの飾り立てを装うところにある。その点、小泉首相には同じ有限実行であっても、それは単なるパフォーマンスであって、国民否定には繋がらないものであった。
安部氏の虚仮威しの飾り立ては、国民に嘘をつくということ、虚勢を張った否定を平気で行うことである。総裁選前から首相気取りで発言するその態度からして飾り立ての一種である。残念なことに誰も注意を促すことなく、反って本人に媚いるのが周辺議員となっているその状況がまさに恐怖なのである。
嘘と否定・「美しい国へ」から
何とも不思議な本である。表題の「美しい国へ」がどうして命名されたのか皆目理解できない。読解力に乏しい自覚はさて置き、読んだ方なら素朴にこの疑問を呈する筈である。兎に角、表題については皆目論じられていない。内容は、役職に着いていた小泉政権時代の弁明、説明に終始するものでしかない。あえて作者の意を酌むとすれば、〈はじめに〉の「闘う政治家」、「闘わない政治家」の1ページだけが主張ということであろうか。また、それに触れて祖父と親父について言及したかったのか。しかし、それがどうして「美しい国へ」となるのか理解に苦しむ。家系自慢と自己宣伝の本ほど、真実とかけ離れていることが多く、読み物として退屈なものはない。
文芸春秋9月号に「闘う政治家」宣言「この国のために命を捨てる」が掲載されている。要するに、安部晋三氏は「闘う政治家」を宣言したいのだろう。「命を捨てる」とまで言っているのだから本気なのだろう、そう信じたいと誰もが思う。しかし、私は、安部氏は「否定と嘘」が矛盾なく混在できる稀有な存在だという認識を持つに至った。
「闘う政治家」宣言を全面に出して総裁選に臨んだのは良いのだが、直ぐにぼろを出すことが露呈する。8月4日、4月15日に靖国を参拝していたことが報じられる。その時の対応は、全く「闘う政治家」とは裏腹な見解を直ぐに出していることである。それは、6月30日「5人組みブレーン」で取り決めた、「自身の参拝については行く、行かないは明言しない」、「・・・その必要もない」と記者団に会見したのである。安部氏の全面広告である「闘う政治家」は「美しい国へ」で明確に定義されている。「国家のため、国民のためとあれば、批判を恐れず行動する政治家のことである。」(はじめに)、ここに私は安部氏の「嘘と否定」が混在していると読む。読解力の問題ではなく、小学校の読み書きの次元の話だ。
さらに、安部氏は自著でとんでもない「嘘と否定」を行っている。それは肉親に関することで尚更驚愕に値する、この原点から「間違った政治家」の始まりがあり、安部氏の歴史認識の歪みが浮き彫りされていると断言できる。安部氏の岸信介元首相への憧れと崇拝はよく聞く話だが、例に漏れずこの書にも「闘う政治家」の理想の具現として登場する。しかし、同じ祖父にあたる同世代の国会議員安部寛氏についてはたったの3行しか述べられていない。単なる家族構成上の関係でしか記述されていないのである。当時の国政を見ると、昭和12年総選挙に無所属で立候補して当選を果たしている。岸信介氏は東条内閣の商工大臣として翼賛推薦候補でトップ当選である。これは同じ選挙区の話である。安部寛氏(山口県で当時昭和の吉田松陰と呼ばれていた)はこの後、三木武夫氏らと共に東条内閣の退陣を求めて戦争反対の運動を行っている。
これでお解かりのように、「闘う政治家」は安部寛氏であるにも拘らず、氏については単なる親族関係でしか書かれていない。要するに、岸信介祖父に反対した人間だから否定され、「戦争反対を訴えた、闘う政治家」に対して黙殺という嘘の評価を与えたのである。ここに安部氏の歴史認識の否定に繋がるイデオロギー優先が見て取れる。危険というより恐るべき政治家と判断した方がよさそうである。
そして極めつけは、安部氏の三つ子の魂ではないが、歴史認識に対する決定的な否定発言である。総裁選告示を控えて、自己宣伝をすればするほど言動の破綻をきたしていく総裁候補者も珍しい。
安倍氏は6日午後の会見で、過去の侵略戦争と植民地支配を謝罪した95年の村山談話について、「村山談話を踏襲しますか」という質問に、「村山談話は日本政府が出した談話であり、歴史的に位置づけられています。その積み重ねの中で述べていくべきでしょう。」(7日毎日新聞)と答えている。当然、踏襲すると解釈できる答弁である。しかし、7日の記者会見では「政権が変わるたびにいちいち談話を出す必要がない。戦争についての適切な評価は、歴史家に任せるべきだ」と述べた。これを受けて8日産経新聞「主張」は「政府の連続性から首相談話の見直しは慎重になされなければならないが、正すべきは意を尽くして正すのが政府の責務であろう。」との見解を表明した。即ち、安部氏の発言はこれまで踏襲された歴代首相見解を撤回することを示唆したものと解釈したのである。当然この解釈が成り立つと考えるのは何も産経新聞だけではなく、8日朝日新聞「社説」は「安倍発言 村山談話を葬るな」という強い危機意識をもって論じられている。次期首相は戦後60年を経て、一定の継承された歴史認識を共通しなければならない立場にきて、早くもそれを全否定しかねない見解をだすことは大変な問題である(周知のように、安部氏は村山談話と河野談話(「従軍慰安婦・強制連行」説)を当時、強行に反対した)。しかし、冷静に考えた場合、一人の反逆児は実は世間が透明な渇望力でもって支えている事実である。政治屋である議員はこの世間の支持の恩恵に肖りたい一心で迎合しているに過ぎない。従って、当の本人よりも現世論状況がどうかしてしまっていると判断しなければならない。自民党が常に主張する「国民の皆さんが支持している」この一言に尽きる。
国民の安部人気とは何か
朝日新聞の世論調査によると、安倍氏を支持していると答えた人は54%、その内訳は人柄とイメージが好いは44%、政策を支持するが11%だった。これは関心深いアンケートである。普通、外交政策に強い日本のアピールがよいと判断しての政策支持が多いと考えたいところだが。小泉選挙でよく言われた選挙手法「小泉政権支持基盤」の狙い撃ち戦略、「思考停止の賛成か反対か」市民の氾濫状況とは違うものである。では一体何がそうさせているのか。体調不安説は前から囁かれている。総裁選出馬に着飾っても、持病の胃腸が何時も顔を覆っているテレビからの阿部氏の見てくれは、決してイメージが良いとは受け止められない。であればなおさらのことである。
識者各人多様な解釈で状況分析を行っているが、どれも真ともではあるが全てではない。本来評論とはそのようなものであろうし、極めて時間軸的に処理されることも肯ける。そこで私なりにこの普遍的国民兆候に対して断じておきたい。それは、「世襲制」に対する理由なしの全面的憧れであり、個人が自ら創る「感性の枠」、願望、安堵感、人間の負の諸物がもたらすものである。また、それを覆す言葉をもてないのが人間であり、社会である。そして、その最大の象徴が天皇制である。
決定的時間軸はこの瞬間である。私達にとって、覆すことができない改憲前夜、「世襲制」の現状況において、日本と日本の国民について再考する最後の機会である。
新聞、テレビに出てこない安部像
私達が知る安部氏の実績、活躍は政府役職にある以外は、拉致問題に取り組んだだけであると言っても過言ではない。その他について、また、地元での実績、評価についてはあまり関心ごとにはならない。しかし、何代にもなる選挙地盤である、それなりの信頼と実績があってあたりまえだと考えるが、
9月1日号の週刊「金曜日」に横田一氏が興味深い安部晋三氏の地元政治家としての正体を暴いた記事、タイトルは「逃げる政治家」を寄稿している。島根県の「竹島問題」での無責任な「逃げる政治家」対応、そして、山口県の旧態道路族の温床になっている「山陰自動車道」計画の推進、さらに驚く、父親時代の「第二関門僑」計画などについてのものである。自然破壊をともなうバラマキムダな公共事業推進という時代に逆行した地元政策を推し進めているという現地レポートである。さらに、8日号「安部晋三の正体」第2回では、「怪しい政治家」のタイトルで、社会問題になっている「耐震偽装問題」、「ライブドア事件」等と常に何らかの関わりを指摘されていること、また、政商との癒着関係が報告されている。これだけでも、とてもクリーンな清純なイメージとはほど遠いと断言できる(詳細は、横田氏の記事参照)。
安部政権は何を目指すか
8日総裁選出馬記者会見ならびに公開討論会等、それなりの政権構想が本人の口から語られ始めている。また、これに先駆けて「美しい国へ」を出版、その後の「闘う政治家宣言」(文芸春秋9月)をアピールして物物しい出征式をやってのけたが、どうも話しの内容がいまいち今の社会をどのように形作っていくかという国民の生活感が漂わない、独り善がりの国防論しか聞こえてこない。だから、政権構想記者会見は、麻生氏が一番で安部氏は三番という生の評価が現実に下される訳だ。これは話下手という問題ではなく、国民に訴える内容が甚だ乏しいある種時代錯誤的な響きですらあるということの裏返しでもある。穿った見方をすれば、イデオロギーだけが鎮座しているとしか映らない。歴史的に見て危険な幕開けの序章を感じさせる。
そこで本人の舌足らずを補う企画(諸君10月号・「安部政権で日本はこうなる」)を紹介しておく。筆頭ブレーンの中西輝政氏と福田和也氏の対談がそれである。兎に角、「憲法9条改正」で主権国家の回復を実現することが第一目標になる。「9条改正」にともない主権国家の基軸となるように「靖国神社」を、国家存続の最終的手段となる自衛軍の為の「戦勝祈願のお社」と位置づけ再確認することであり、今上天皇の参拝を実現することが最大目標になる。事実、自民党の掲げた新憲法草案前文に「日本の国民は、自らの意思と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する。象徴天皇制は、これを維持する。」、さらに、「国際平和を誠実に願い、他国とともにその実現のため、協力し合う。」と謳われている。正に、天皇制を国家基軸に位置付け、自衛隊を国際平和活動、国防の要と再確認することそのものである。従って、安部政権では、靖国参拝問題は小泉首相より以上にイデオロギーとして重要課題となり、靖国の公式行事である春秋の「例大祭参拝」に軌道修正して参拝することが確認されている。以上が両氏の概略的安部政権構想であり、既に4月15日安部氏は参拝を実行、そして、次回は10月、首相就任初の参拝を実行するであろう。この時の参拝は小泉首相のそれとは全く違った意義をもつもので安部氏の構想は着実に推し進められる。これからも判るように、安部氏にとっては、社会福祉、年金問題、格差問題など全く念頭にないと言っても過言ではないだろう。時代錯誤のおぞましい政権誕生であることは間違いない。明治憲法の精神文化であることを国民は覚悟しなければならない。首相自ら所嫌わず「命を捨てる」と息巻いて、国民に決意せよと迫っている。もはやこれは尋常な世の状況ではない。しかし、覚悟を促す恫喝をあからさまに国民に告げている、これだけでも私達は親切心あるお言葉と考え直し、新たな覚悟をもたなければならない。世襲制への安心、憧れが飛んだ破滅となって我が身にしっぺ返しとなる、歴史が人間の仮面であることにつくづく水天髣髴となるのは私だけだろうか。
安部氏の歴史認識は本物か
西尾幹二氏の期待
さらに、安部氏には力強い味方がいる。西尾幹二氏(新しい歴史教科書をつくる会・名誉会長)だ。但し、今年に入りかなり安部氏に対する評価に変化が見られる。
西尾氏は小泉首相を厳しく糾弾している。西尾氏の論理は、小泉首相は、国の基軸である軍事と経済政策両軸をアメリカに丸投げ、日本を再度全面降伏させた売国奴だと大胆に論じている。そして、この状況下で国民が必然的に「国家を回避したくなる瞬間」に貶められている。従って、言論界も会社社会も総じて国民が言葉を失っていると分析している、これは鋭い指摘だ。言葉を抹殺する説明できない恐ろしい何かを、小泉政権の権力ではなく、小泉首相も恐れるアメリカがそうであると究明しているのだ。これで、「正論10月号」に掲載されている「安部晋三氏よ、小泉にならないで欲しい」の主張がよく理解できるというものだ。要するに、「国」、「社会」を考えたくなくなる瞬間の私達は、常に国とはアメリカと一体化して考えざるを得ない状況に落ち込む、その回避に他ならないという訳である。そこで、西尾氏は「日本を中心にした国家」を考える主体性ある国民であることが必要だと主張する。さらに、どうすればその自信、主体性をもつことができるかと言うと、敗戦歴史認識の払拭であると説く。即ち、村山談話の否定を安部氏ができるかに懸かっているという、今まさに総裁選での迷走発言、上記した歴史認識が焦点な訳である。但し、安部氏の歴史認識とイデオロギーは前提としても、総裁選の討論で基本的な歴史認識の無知が揶揄されている。曲解を超えた無知に至れば話は別で、西尾氏の期待が直線的に安部氏に伝わるかは極めて今後的である。しかし、援軍は西尾氏だけではない。闘う貴婦人、桜井よし子氏も現況で窮地に立っている安部氏の村山談話発言に対して助っ人に乗り出した。
助っ人桜井よし子氏
「踏襲必要ない村山談話」(14日産経新聞)連載「小泉首相に申す」で、とても現況を見ていられないと悟ったのか、襟を正せと激を飛ばした。そう言えば、昨年にも、民主党代表選での前原氏を摑まえて檄を飛ばしていたことがあった。どうやら桜井氏自身戦場を間違えたらしい、世の中上手くいかないものである。余談はさて置き、「7日朝日新聞社説・安部氏、村山談話踏襲明言せず」に対して、「安部氏は村山談話を踏襲する必要は全くない」と決定的一撃を与えた。闘う桜井氏、そこは抜け目なく史実検証を桜井流解釈で村山内閣を一刀両断の下に粉砕、自信喪失していた当時の自民党を嘆いて見せた。しかし、返し刀で元村山総理大臣を「節操のない総理大臣の誕生は日本国の歴史の汚点である。」と断罪した。何とも力強い応援団の発破攻勢であろう。このような援軍の保守思想は「大東亜戦争は正しい戦争であった」という歴史認識であり、西部邁氏のDNAを堅持している安部氏もこの発想そのものである。しかし、近年、イデオロギーと政治が露骨に乖離している現象が現実になっている。実は、次期政権の実質的課題はこの乖離現象にある。この問題に対しては、助っ人論客も然りだが、私達にも同じくある。これについては後日言及する。
三つの歴史認識
国民が安部氏に対して関心を抱いているとすれば、それは、「北朝鮮の拉致問題」、そして、村山談話と慰安婦問題の河野談話、まさに安部氏の歴史認識の問題だ。そして、拉致問題の解決を保証する「日朝平壌宣言」についてだろう。総理就任後、安部氏がこれらについて、産経流に言えば、歴代首相談話、条約の見直しは極めて慎重審議の必要があるが、正すべきは「闘う政治家」として正すのが首相の責務である、と言い出したらそれこそ大騒ぎに成らなければならない局面を迎える。こうなると小泉政権の継承悪法案も立て続けに決められ、一気にマグマ(ファシズム)が日本を戦争の渦に巻き込むであろう。その可能性は可なりあると判断して覚悟を決めておいた方がよい。
「美しい国」 の意味不明
今回、安部氏について書くにあたり、新聞、月刊誌、週刊誌等に目を通したが、安部氏について知れば知るほど、氏自体の輪郭が鮮明にならず反って希薄な病んでいる人物像が浮かび上がってきたというのが実感である。「言語明瞭、意味不明」とはよく言ったものだが、「美しい国」については最後まで想像することができなかった。「闘う政治家宣言」は弱いもの虐めの卑怯な政治家のイメージしかもてなかった。世界が想像していなかった21世紀戦争の世界にあり、戦後60年、日本が直面している最大の難局にどう考えても首相不適任者が就任するのか、他所の台所事情とはいえ不思議でならない、最後まで釈然としない自民党、自民党員に対する更なる不信感に帰着した。
安部氏自身もどうして自分が総理の座に就くのか摩訶不思議に思った瞬間があった。祖父岸信介元首相の名誉挽回、ならびに自身の「毛並みの良さ・家系図」を披露する手段はいくらでも他に方法があっただろうに。
最後に
確かに時代は変わっている。日本は総じて宥和主義になってしまった。その為に社会は病んだ常態であり続けている。その恩恵でしばらくは安部政権も病んだ安部イデオロギーであり続けられるだろう。しかし、それはファシズムと同じことでもある。
宥和主義もイデオロギーそのものは本来自爆的であるものだ。そして、歴史は常に発火時点の模索と願望を欲するものである。
(平和の声 通信【格物致知】2006年9月17日)
安部政権誕生の確実性
現段階で既に国会議員の8割、地方票の7割が安部氏支持を表明している。投票数で言えば、国会議員票は320票、地方票210票が確実視され、1回目の投票で過半数に達し当選確実となる。
詳細情報は「自民党総裁の選出方法・役割」のサイトを参照。
シラケ総裁選のシラケ組閣人事予想
甘利明氏(「安倍応援隊」事務局長57歳)と山本有二氏(「再チャレンジ議連」会長54歳)の入閣決定。中川秀直氏(62歳)の幹事長確実、柳沢伯夫氏(「選対本部長」71歳)が財務相有力候補。
久間章生総務会長(津島派65歳)、公明党からは冬柴鉄三(70)の入閣決定(総務か経産)。
官房長官候補は与謝野馨氏(無派閥68歳)、石原伸晃氏(49歳)、塩崎恭久氏(55歳)、町村信孝氏(森派61歳)、細田博之氏(62歳)ら。若林正俊氏(森派72歳)、溝手顕正氏(丹羽・古賀派64歳)等。
また、麻生外務大臣の留任説もある。
安部ブレーン政治の人派
ブレーン5人組み(政策提言有識者グループ)
伊藤哲夫(日本政策研究センター所長)・島田洋一(福井県立大教授)・中西輝政(京大教授)・西岡力(東京基督教大教授)・八木秀次(高崎経済大教授)
有識者特別顧問
岡崎久彦(岡崎研究所所長)・尾山太郎(政治評論家)
安部支援民間団体
「立ち上がれ!日本・ネットワーク」(草の根保守ネットワーク)
呼びかけ人はブレーン5人組の他に、西尾幹二(評論家)・佐藤勝巳(救う会)・山谷えり子(衆議院議員)他。
安部政権を支える同期議員の会11人・「安部晋三さんを支える会」
会長佐田玄一郎、石原伸晃、他
特別委員・下村博文衆院議員。
安部政権を支える外交外務省グループ
加藤良三(駐米大使)・谷内正太郎(事務次官)・斎木昭隆(駐米公使)・河野紀元(駐独大使)
・河野雅治(総合外交政策局長)。
自民党の安部氏推進シンクタンク
2005年に立ち上げた自民党の〈シンクタンク2005・日本〉が基盤になっている。
参照・「シンクタンク2005・日本」の研究成果の報告受ける 党改革実行本部
・安倍氏推進の自民政策機関
自民党の「シンクタンク2005・日本」
安全保障と情報収集グループ(別名称、警察官僚「3人衆」)
漆間巌警察庁長官、三谷秀史情報官、北村滋警察庁外事課長(警察庁関係者)
財界グループ
葛西敬之会長(JR東海)、の西岡喬会長(三菱重工)、相原宏徳会長(宇宙通信)、的場順三前理事長(大和総研)、親戚の牛尾治朗会長(ウシオ電機)、森永製菓名誉会長(奥さんの親父)
本当のブレーン
四谷のフィクサーA(政界フィクサー)[現在マスコミ総動員で探索中]
安部政権の危険性と国民の終末論
危険性について
マスコミは、また国民はどうして「金持ち」を血統、毛並みの良さとして羨望を全面的に喧伝するのか。人間社会において血統書を全面的に押し出して構築する関係は、もはや戦後教育の建前も否定したものである。既に「格差社会は当たり前」と国民が降参した現況でとやかくいうのも憚れるが、もう一度冷静に国民は考える時期にきているのではないか。
血統書に裏打ちされる世襲制度は日本の近代化という化け物に身を被い、取り返しのつかない負の歴史を刻んだことは未だ記憶の範疇ではないか。127代目か3代目か、それをどうしてマスコミは「プリンス」と呼称したがるのか。マスコミが国民に対して「政界のプリンス」と刷り込みすることによって、実はそれを真に受けたのが安部氏自身であったことはよくある話である。そしてその結果を静粛に国民は身につけるのだ。今回の総裁選においても、国会議員、一般党員の安部氏支持の根拠は政策、構想に対するものではなく、国民的支持があるという、マスコミの模造話(プリンスという虚像)を選択の基準にしている。自民党員全てが安部氏の出陣書「美しい国へ」を読んで賛同した訳ではないだろう。
「政界のプリンス」と圧倒的支持の背景は、完全に計画された自民党の総理誕生劇であることを知る必要がある。即ち、自由民主党結党理念、「自主憲法の制定」がそれである。結党50年、昨年悲願の新憲法草案を発表した。正に安部氏の政治活動そのものがこの制定に体現される歴史的時間軸をもつ機会に出会ったという状況が誕生劇の起因でもある。仕掛けたのは小泉首相である。小泉首相は就任後、耽々とその機会を狙い、当時亀井静香氏周辺の安部氏を引き寄せた。
大臣秘書官の経験しかない安部氏を、幹事長、官房副長官、官房長官と正に帝王学そのもの、ミッションスクール卒業式の合格総裁試験に臨ませた。風潮的に小泉政権の傀儡かと揶揄される理由は、「美しい日本へ」を読めば理解できるが、完全に小泉政権の継承でしかない政策理念しか持ち合わせていないことからも伺われるが、もう一つ確信的な事実がある。それは、前回から指摘している小泉首相のやくざ的「度胸試し」と小泉氏自身の任侠人生からくる小泉流「義理」と「人情」が成せる技であったということだ。小泉首相の「非情」さがよく取り立たされるが、それは、私達の判断で、彼らの尺度ではそうではないらしいのだ。以前からの森氏との連携、森氏の安部氏推薦人代表を了承する了見は小泉氏流の義理と人情だと解釈しなければならない。さらに小泉首相の周到な指名劇は、実は、「自民党をぶっ壊す」と常に寝言のように繰返しているが、しかし、最後はきっちりと自民党議員の方々が納得せざるを得ない状況を提示している。自民党保守正流を位置づける、福田派、安部(晋太郎)派、森派
小泉(派)、そして安部晋三首相とその正流跡目相続の実現がそれを物語っている。これで、立派に亡き安部晋太郎氏へ義理も果たせたし、安部晋三氏に恩を売った訳である。これで完全に小泉大親分になった訳だ。戦後首相伝にあって、奇才小泉首相にはそれだけの知量があったということだ。
しかし、善く善く考えなければならないことは、一国の総理を選出するのに、この様で全うな民主国家と言えるかというだ。政策論議以前に総裁が決まる状況はファシスト前夜社会を髣髴とさせる臭いが充満していると指摘しなければならない。今回の世襲主義的総裁選挙は、森内閣誕生劇の密室談合指名と何ら変わることのない自民党の最も自民党的体質を露見したと言える。「ぶっ壊したはずの自民党」が単なる化粧直しに過ぎなかったということだ。三つ子の魂百までとは自民党そのものを言い表している。
今回の総裁選は、安部氏自身がいつも圧制野蛮国と槍玉にあげる北朝鮮キム政権のお世継ぎ形式となんら変わらないことを安部氏自身おくびにも出さず、意味不明な自書「美しい国へ」の出版とか、長グツ姿で稲刈りして人気を得ようとする態度はどう考えても不自然である。この不自然さが安部晋三氏の怖さ、危険な政権に繋がっていく。辺見庸指摘の「糞バエ・マスコミ」が「憲法改正」、「教育基本法改正」、「自衛隊法の改正」で集団的自衛権の行使を明記、日本版CIA設立、安全保障会議構想等を言及したと大騒ぎに書き立てるが、全て小泉政権下の既定路線ではないか。そのような継承された政策の進捗については、然程怯えることはない。安部晋三氏の危険は、政治家として有限実行する時にその本質にある「声なき声」以外の完全否定を躊躇わず実施することだ。所謂、虚仮威しの飾り立てを装うところにある。その点、小泉首相には同じ有限実行であっても、それは単なるパフォーマンスであって、国民否定には繋がらないものであった。
安部氏の虚仮威しの飾り立ては、国民に嘘をつくということ、虚勢を張った否定を平気で行うことである。総裁選前から首相気取りで発言するその態度からして飾り立ての一種である。残念なことに誰も注意を促すことなく、反って本人に媚いるのが周辺議員となっているその状況がまさに恐怖なのである。
嘘と否定・「美しい国へ」から
何とも不思議な本である。表題の「美しい国へ」がどうして命名されたのか皆目理解できない。読解力に乏しい自覚はさて置き、読んだ方なら素朴にこの疑問を呈する筈である。兎に角、表題については皆目論じられていない。内容は、役職に着いていた小泉政権時代の弁明、説明に終始するものでしかない。あえて作者の意を酌むとすれば、〈はじめに〉の「闘う政治家」、「闘わない政治家」の1ページだけが主張ということであろうか。また、それに触れて祖父と親父について言及したかったのか。しかし、それがどうして「美しい国へ」となるのか理解に苦しむ。家系自慢と自己宣伝の本ほど、真実とかけ離れていることが多く、読み物として退屈なものはない。
文芸春秋9月号に「闘う政治家」宣言「この国のために命を捨てる」が掲載されている。要するに、安部晋三氏は「闘う政治家」を宣言したいのだろう。「命を捨てる」とまで言っているのだから本気なのだろう、そう信じたいと誰もが思う。しかし、私は、安部氏は「否定と嘘」が矛盾なく混在できる稀有な存在だという認識を持つに至った。
「闘う政治家」宣言を全面に出して総裁選に臨んだのは良いのだが、直ぐにぼろを出すことが露呈する。8月4日、4月15日に靖国を参拝していたことが報じられる。その時の対応は、全く「闘う政治家」とは裏腹な見解を直ぐに出していることである。それは、6月30日「5人組みブレーン」で取り決めた、「自身の参拝については行く、行かないは明言しない」、「・・・その必要もない」と記者団に会見したのである。安部氏の全面広告である「闘う政治家」は「美しい国へ」で明確に定義されている。「国家のため、国民のためとあれば、批判を恐れず行動する政治家のことである。」(はじめに)、ここに私は安部氏の「嘘と否定」が混在していると読む。読解力の問題ではなく、小学校の読み書きの次元の話だ。
さらに、安部氏は自著でとんでもない「嘘と否定」を行っている。それは肉親に関することで尚更驚愕に値する、この原点から「間違った政治家」の始まりがあり、安部氏の歴史認識の歪みが浮き彫りされていると断言できる。安部氏の岸信介元首相への憧れと崇拝はよく聞く話だが、例に漏れずこの書にも「闘う政治家」の理想の具現として登場する。しかし、同じ祖父にあたる同世代の国会議員安部寛氏についてはたったの3行しか述べられていない。単なる家族構成上の関係でしか記述されていないのである。当時の国政を見ると、昭和12年総選挙に無所属で立候補して当選を果たしている。岸信介氏は東条内閣の商工大臣として翼賛推薦候補でトップ当選である。これは同じ選挙区の話である。安部寛氏(山口県で当時昭和の吉田松陰と呼ばれていた)はこの後、三木武夫氏らと共に東条内閣の退陣を求めて戦争反対の運動を行っている。
これでお解かりのように、「闘う政治家」は安部寛氏であるにも拘らず、氏については単なる親族関係でしか書かれていない。要するに、岸信介祖父に反対した人間だから否定され、「戦争反対を訴えた、闘う政治家」に対して黙殺という嘘の評価を与えたのである。ここに安部氏の歴史認識の否定に繋がるイデオロギー優先が見て取れる。危険というより恐るべき政治家と判断した方がよさそうである。
そして極めつけは、安部氏の三つ子の魂ではないが、歴史認識に対する決定的な否定発言である。総裁選告示を控えて、自己宣伝をすればするほど言動の破綻をきたしていく総裁候補者も珍しい。
安倍氏は6日午後の会見で、過去の侵略戦争と植民地支配を謝罪した95年の村山談話について、「村山談話を踏襲しますか」という質問に、「村山談話は日本政府が出した談話であり、歴史的に位置づけられています。その積み重ねの中で述べていくべきでしょう。」(7日毎日新聞)と答えている。当然、踏襲すると解釈できる答弁である。しかし、7日の記者会見では「政権が変わるたびにいちいち談話を出す必要がない。戦争についての適切な評価は、歴史家に任せるべきだ」と述べた。これを受けて8日産経新聞「主張」は「政府の連続性から首相談話の見直しは慎重になされなければならないが、正すべきは意を尽くして正すのが政府の責務であろう。」との見解を表明した。即ち、安部氏の発言はこれまで踏襲された歴代首相見解を撤回することを示唆したものと解釈したのである。当然この解釈が成り立つと考えるのは何も産経新聞だけではなく、8日朝日新聞「社説」は「安倍発言 村山談話を葬るな」という強い危機意識をもって論じられている。次期首相は戦後60年を経て、一定の継承された歴史認識を共通しなければならない立場にきて、早くもそれを全否定しかねない見解をだすことは大変な問題である(周知のように、安部氏は村山談話と河野談話(「従軍慰安婦・強制連行」説)を当時、強行に反対した)。しかし、冷静に考えた場合、一人の反逆児は実は世間が透明な渇望力でもって支えている事実である。政治屋である議員はこの世間の支持の恩恵に肖りたい一心で迎合しているに過ぎない。従って、当の本人よりも現世論状況がどうかしてしまっていると判断しなければならない。自民党が常に主張する「国民の皆さんが支持している」この一言に尽きる。
国民の安部人気とは何か
朝日新聞の世論調査によると、安倍氏を支持していると答えた人は54%、その内訳は人柄とイメージが好いは44%、政策を支持するが11%だった。これは関心深いアンケートである。普通、外交政策に強い日本のアピールがよいと判断しての政策支持が多いと考えたいところだが。小泉選挙でよく言われた選挙手法「小泉政権支持基盤」の狙い撃ち戦略、「思考停止の賛成か反対か」市民の氾濫状況とは違うものである。では一体何がそうさせているのか。体調不安説は前から囁かれている。総裁選出馬に着飾っても、持病の胃腸が何時も顔を覆っているテレビからの阿部氏の見てくれは、決してイメージが良いとは受け止められない。であればなおさらのことである。
識者各人多様な解釈で状況分析を行っているが、どれも真ともではあるが全てではない。本来評論とはそのようなものであろうし、極めて時間軸的に処理されることも肯ける。そこで私なりにこの普遍的国民兆候に対して断じておきたい。それは、「世襲制」に対する理由なしの全面的憧れであり、個人が自ら創る「感性の枠」、願望、安堵感、人間の負の諸物がもたらすものである。また、それを覆す言葉をもてないのが人間であり、社会である。そして、その最大の象徴が天皇制である。
決定的時間軸はこの瞬間である。私達にとって、覆すことができない改憲前夜、「世襲制」の現状況において、日本と日本の国民について再考する最後の機会である。
新聞、テレビに出てこない安部像
私達が知る安部氏の実績、活躍は政府役職にある以外は、拉致問題に取り組んだだけであると言っても過言ではない。その他について、また、地元での実績、評価についてはあまり関心ごとにはならない。しかし、何代にもなる選挙地盤である、それなりの信頼と実績があってあたりまえだと考えるが、
9月1日号の週刊「金曜日」に横田一氏が興味深い安部晋三氏の地元政治家としての正体を暴いた記事、タイトルは「逃げる政治家」を寄稿している。島根県の「竹島問題」での無責任な「逃げる政治家」対応、そして、山口県の旧態道路族の温床になっている「山陰自動車道」計画の推進、さらに驚く、父親時代の「第二関門僑」計画などについてのものである。自然破壊をともなうバラマキムダな公共事業推進という時代に逆行した地元政策を推し進めているという現地レポートである。さらに、8日号「安部晋三の正体」第2回では、「怪しい政治家」のタイトルで、社会問題になっている「耐震偽装問題」、「ライブドア事件」等と常に何らかの関わりを指摘されていること、また、政商との癒着関係が報告されている。これだけでも、とてもクリーンな清純なイメージとはほど遠いと断言できる(詳細は、横田氏の記事参照)。
安部政権は何を目指すか
8日総裁選出馬記者会見ならびに公開討論会等、それなりの政権構想が本人の口から語られ始めている。また、これに先駆けて「美しい国へ」を出版、その後の「闘う政治家宣言」(文芸春秋9月)をアピールして物物しい出征式をやってのけたが、どうも話しの内容がいまいち今の社会をどのように形作っていくかという国民の生活感が漂わない、独り善がりの国防論しか聞こえてこない。だから、政権構想記者会見は、麻生氏が一番で安部氏は三番という生の評価が現実に下される訳だ。これは話下手という問題ではなく、国民に訴える内容が甚だ乏しいある種時代錯誤的な響きですらあるということの裏返しでもある。穿った見方をすれば、イデオロギーだけが鎮座しているとしか映らない。歴史的に見て危険な幕開けの序章を感じさせる。
そこで本人の舌足らずを補う企画(諸君10月号・「安部政権で日本はこうなる」)を紹介しておく。筆頭ブレーンの中西輝政氏と福田和也氏の対談がそれである。兎に角、「憲法9条改正」で主権国家の回復を実現することが第一目標になる。「9条改正」にともない主権国家の基軸となるように「靖国神社」を、国家存続の最終的手段となる自衛軍の為の「戦勝祈願のお社」と位置づけ再確認することであり、今上天皇の参拝を実現することが最大目標になる。事実、自民党の掲げた新憲法草案前文に「日本の国民は、自らの意思と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する。象徴天皇制は、これを維持する。」、さらに、「国際平和を誠実に願い、他国とともにその実現のため、協力し合う。」と謳われている。正に、天皇制を国家基軸に位置付け、自衛隊を国際平和活動、国防の要と再確認することそのものである。従って、安部政権では、靖国参拝問題は小泉首相より以上にイデオロギーとして重要課題となり、靖国の公式行事である春秋の「例大祭参拝」に軌道修正して参拝することが確認されている。以上が両氏の概略的安部政権構想であり、既に4月15日安部氏は参拝を実行、そして、次回は10月、首相就任初の参拝を実行するであろう。この時の参拝は小泉首相のそれとは全く違った意義をもつもので安部氏の構想は着実に推し進められる。これからも判るように、安部氏にとっては、社会福祉、年金問題、格差問題など全く念頭にないと言っても過言ではないだろう。時代錯誤のおぞましい政権誕生であることは間違いない。明治憲法の精神文化であることを国民は覚悟しなければならない。首相自ら所嫌わず「命を捨てる」と息巻いて、国民に決意せよと迫っている。もはやこれは尋常な世の状況ではない。しかし、覚悟を促す恫喝をあからさまに国民に告げている、これだけでも私達は親切心あるお言葉と考え直し、新たな覚悟をもたなければならない。世襲制への安心、憧れが飛んだ破滅となって我が身にしっぺ返しとなる、歴史が人間の仮面であることにつくづく水天髣髴となるのは私だけだろうか。
安部氏の歴史認識は本物か
西尾幹二氏の期待
さらに、安部氏には力強い味方がいる。西尾幹二氏(新しい歴史教科書をつくる会・名誉会長)だ。但し、今年に入りかなり安部氏に対する評価に変化が見られる。
西尾氏は小泉首相を厳しく糾弾している。西尾氏の論理は、小泉首相は、国の基軸である軍事と経済政策両軸をアメリカに丸投げ、日本を再度全面降伏させた売国奴だと大胆に論じている。そして、この状況下で国民が必然的に「国家を回避したくなる瞬間」に貶められている。従って、言論界も会社社会も総じて国民が言葉を失っていると分析している、これは鋭い指摘だ。言葉を抹殺する説明できない恐ろしい何かを、小泉政権の権力ではなく、小泉首相も恐れるアメリカがそうであると究明しているのだ。これで、「正論10月号」に掲載されている「安部晋三氏よ、小泉にならないで欲しい」の主張がよく理解できるというものだ。要するに、「国」、「社会」を考えたくなくなる瞬間の私達は、常に国とはアメリカと一体化して考えざるを得ない状況に落ち込む、その回避に他ならないという訳である。そこで、西尾氏は「日本を中心にした国家」を考える主体性ある国民であることが必要だと主張する。さらに、どうすればその自信、主体性をもつことができるかと言うと、敗戦歴史認識の払拭であると説く。即ち、村山談話の否定を安部氏ができるかに懸かっているという、今まさに総裁選での迷走発言、上記した歴史認識が焦点な訳である。但し、安部氏の歴史認識とイデオロギーは前提としても、総裁選の討論で基本的な歴史認識の無知が揶揄されている。曲解を超えた無知に至れば話は別で、西尾氏の期待が直線的に安部氏に伝わるかは極めて今後的である。しかし、援軍は西尾氏だけではない。闘う貴婦人、桜井よし子氏も現況で窮地に立っている安部氏の村山談話発言に対して助っ人に乗り出した。
助っ人桜井よし子氏
「踏襲必要ない村山談話」(14日産経新聞)連載「小泉首相に申す」で、とても現況を見ていられないと悟ったのか、襟を正せと激を飛ばした。そう言えば、昨年にも、民主党代表選での前原氏を摑まえて檄を飛ばしていたことがあった。どうやら桜井氏自身戦場を間違えたらしい、世の中上手くいかないものである。余談はさて置き、「7日朝日新聞社説・安部氏、村山談話踏襲明言せず」に対して、「安部氏は村山談話を踏襲する必要は全くない」と決定的一撃を与えた。闘う桜井氏、そこは抜け目なく史実検証を桜井流解釈で村山内閣を一刀両断の下に粉砕、自信喪失していた当時の自民党を嘆いて見せた。しかし、返し刀で元村山総理大臣を「節操のない総理大臣の誕生は日本国の歴史の汚点である。」と断罪した。何とも力強い応援団の発破攻勢であろう。このような援軍の保守思想は「大東亜戦争は正しい戦争であった」という歴史認識であり、西部邁氏のDNAを堅持している安部氏もこの発想そのものである。しかし、近年、イデオロギーと政治が露骨に乖離している現象が現実になっている。実は、次期政権の実質的課題はこの乖離現象にある。この問題に対しては、助っ人論客も然りだが、私達にも同じくある。これについては後日言及する。
三つの歴史認識
国民が安部氏に対して関心を抱いているとすれば、それは、「北朝鮮の拉致問題」、そして、村山談話と慰安婦問題の河野談話、まさに安部氏の歴史認識の問題だ。そして、拉致問題の解決を保証する「日朝平壌宣言」についてだろう。総理就任後、安部氏がこれらについて、産経流に言えば、歴代首相談話、条約の見直しは極めて慎重審議の必要があるが、正すべきは「闘う政治家」として正すのが首相の責務である、と言い出したらそれこそ大騒ぎに成らなければならない局面を迎える。こうなると小泉政権の継承悪法案も立て続けに決められ、一気にマグマ(ファシズム)が日本を戦争の渦に巻き込むであろう。その可能性は可なりあると判断して覚悟を決めておいた方がよい。
「美しい国」 の意味不明
今回、安部氏について書くにあたり、新聞、月刊誌、週刊誌等に目を通したが、安部氏について知れば知るほど、氏自体の輪郭が鮮明にならず反って希薄な病んでいる人物像が浮かび上がってきたというのが実感である。「言語明瞭、意味不明」とはよく言ったものだが、「美しい国」については最後まで想像することができなかった。「闘う政治家宣言」は弱いもの虐めの卑怯な政治家のイメージしかもてなかった。世界が想像していなかった21世紀戦争の世界にあり、戦後60年、日本が直面している最大の難局にどう考えても首相不適任者が就任するのか、他所の台所事情とはいえ不思議でならない、最後まで釈然としない自民党、自民党員に対する更なる不信感に帰着した。
安部氏自身もどうして自分が総理の座に就くのか摩訶不思議に思った瞬間があった。祖父岸信介元首相の名誉挽回、ならびに自身の「毛並みの良さ・家系図」を披露する手段はいくらでも他に方法があっただろうに。
最後に
確かに時代は変わっている。日本は総じて宥和主義になってしまった。その為に社会は病んだ常態であり続けている。その恩恵でしばらくは安部政権も病んだ安部イデオロギーであり続けられるだろう。しかし、それはファシズムと同じことでもある。
宥和主義もイデオロギーそのものは本来自爆的であるものだ。そして、歴史は常に発火時点の模索と願望を欲するものである。
(平和の声 通信【格物致知】2006年9月17日)
2006年09月02日
8月31日[通信・NO303]で東京都総合防災訓練について言及した。その一節で「今回はそれに在日米軍が参加する構図になっている。これも、自衛隊と米軍の共同統合、運用が日常化する過程で当たり前の参加であり、また、そうでなければ迅速な都民、首都機能の回復、「都民を救え!首都を救え!」にはならない。」と書いた。
1日、防災訓練に参加した石原慎太郎都知事は、「(日米安全保障)条約を結んでいるのだから(参加するのは)当たり前だよ」と述べた、そして、小泉首相と訓練を視察したと報道されている。東京都民が圧倒的支持をする都知事の発言である。真摯に受け止めなければならない。東京都内、周辺に点在する「在日米軍」が「人命救助と首都機能回復」に参加するのは極めて当たり前なのだ。
「当たり前」の流行
安部官房長官の靖国神社に参拝するのは「当たり前」、小泉首相の格差社会があって「当たり前」、そして石原都知事の在日米軍が参加して「当たり前」、さらに、国民の国を愛するのは「当たり前」と、世のなか全てが「当たり前」化の傾向にある、恐るべき「当たり前」人気の急騰だ。今年の流行語大賞を取る勢いである。この勢いで「当たり前サンバ」をつくり、国民踊りにでもして狂い踊りに興じてみるのも一策かと思われる。「変革」の兆しに「踊り」ありが日本の地殻変動説である。
「当たり前」と常識
非宗教国立追悼施設実現の暁に天皇陛下が参拝を果たし、自衛隊が恒久法に基づく新自衛隊となれば、天皇制と新自衛隊が日本の「当たり前」社会で日本人の常識になる。もはや、覆すことができない進化した日本において、天皇制と憲法9条は研究対象の次元に昇華される。文献的対象で今後の日本の常識、所謂、教育現場という歴史で定着するであろう。示唆するまでもなく、文化になるのである。
「当たり前」と国際平和協力
8月11日から24日にかけて、上海協力機構の常任国モンゴルが米軍指導の有志連合国参加の下で軍事訓練を実施している。当然、自衛隊も参加した。「テロとの戦い」を想定した「カーン・クエスト(王の遠征)2006」と命名された多国間軍事演習は「国際平和協力」を目的にしている。しかし、演習は中国とロシアの参加を排除した形で実施された。但し、中国は視察要請を受けて演習に立ち会っている。ここのところ非常に見え辛くなっている国際均衡における軍事演習は、上海協力機構参加国が米軍と軍事演習を行ったことで一層混迷した様相を帯びてきている。ただ、モンゴル軍の発表した「国際平和協力」の一環として実施したということにおいては、中国もロシアも表向きの批判は避けている。これが国際常識ということになりつつある。日本においても、 8月30日、防衛政策検討小委員会で「国際平和協力法案」の原案が了承されたが、この国際常識が「当たり前」になってしまうだろう。既に、今回の軍事演習にも参加している。従って、恒久海外派遣新自衛隊の実現は時間の問題となる。既に有志連合国の一員になっている現実は常に法整備が遅れを取っている。
「当たり前」でない皆さんに
現在の「当たり前」社会を覆す方法論に日夜奮闘されている皆さんに、常識は受け入れざるを得ないと常識を述べても、心の平安はやってこないことは百も承知しているが、それでは埒がいかない。いかし、常識を覆す、打ち破る、超えることは至難の技であり、誰もが歳とともに身に染みて理解させられている、それが現実である。
芸術家岡本太郎氏の「芸術は爆発だ!」はやはり鮮烈な響きを今も持っている。「爆発」の新鮮さにいまさらながら驚愕させられる。また、「爆発」に似た必死という馬鹿の一種があるが、左翼陣営はそうもいかないようである。芸術家、馬鹿者にもなれない私達は実に困ったものだ。早く特効薬が見つかれば好いが、これからも難儀な話は続く。
(平和の声 通信【格物致知】2006年9月2日)
1日、防災訓練に参加した石原慎太郎都知事は、「(日米安全保障)条約を結んでいるのだから(参加するのは)当たり前だよ」と述べた、そして、小泉首相と訓練を視察したと報道されている。東京都民が圧倒的支持をする都知事の発言である。真摯に受け止めなければならない。東京都内、周辺に点在する「在日米軍」が「人命救助と首都機能回復」に参加するのは極めて当たり前なのだ。
「当たり前」の流行
安部官房長官の靖国神社に参拝するのは「当たり前」、小泉首相の格差社会があって「当たり前」、そして石原都知事の在日米軍が参加して「当たり前」、さらに、国民の国を愛するのは「当たり前」と、世のなか全てが「当たり前」化の傾向にある、恐るべき「当たり前」人気の急騰だ。今年の流行語大賞を取る勢いである。この勢いで「当たり前サンバ」をつくり、国民踊りにでもして狂い踊りに興じてみるのも一策かと思われる。「変革」の兆しに「踊り」ありが日本の地殻変動説である。
「当たり前」と常識
非宗教国立追悼施設実現の暁に天皇陛下が参拝を果たし、自衛隊が恒久法に基づく新自衛隊となれば、天皇制と新自衛隊が日本の「当たり前」社会で日本人の常識になる。もはや、覆すことができない進化した日本において、天皇制と憲法9条は研究対象の次元に昇華される。文献的対象で今後の日本の常識、所謂、教育現場という歴史で定着するであろう。示唆するまでもなく、文化になるのである。
「当たり前」と国際平和協力
8月11日から24日にかけて、上海協力機構の常任国モンゴルが米軍指導の有志連合国参加の下で軍事訓練を実施している。当然、自衛隊も参加した。「テロとの戦い」を想定した「カーン・クエスト(王の遠征)2006」と命名された多国間軍事演習は「国際平和協力」を目的にしている。しかし、演習は中国とロシアの参加を排除した形で実施された。但し、中国は視察要請を受けて演習に立ち会っている。ここのところ非常に見え辛くなっている国際均衡における軍事演習は、上海協力機構参加国が米軍と軍事演習を行ったことで一層混迷した様相を帯びてきている。ただ、モンゴル軍の発表した「国際平和協力」の一環として実施したということにおいては、中国もロシアも表向きの批判は避けている。これが国際常識ということになりつつある。日本においても、 8月30日、防衛政策検討小委員会で「国際平和協力法案」の原案が了承されたが、この国際常識が「当たり前」になってしまうだろう。既に、今回の軍事演習にも参加している。従って、恒久海外派遣新自衛隊の実現は時間の問題となる。既に有志連合国の一員になっている現実は常に法整備が遅れを取っている。
「当たり前」でない皆さんに
現在の「当たり前」社会を覆す方法論に日夜奮闘されている皆さんに、常識は受け入れざるを得ないと常識を述べても、心の平安はやってこないことは百も承知しているが、それでは埒がいかない。いかし、常識を覆す、打ち破る、超えることは至難の技であり、誰もが歳とともに身に染みて理解させられている、それが現実である。
芸術家岡本太郎氏の「芸術は爆発だ!」はやはり鮮烈な響きを今も持っている。「爆発」の新鮮さにいまさらながら驚愕させられる。また、「爆発」に似た必死という馬鹿の一種があるが、左翼陣営はそうもいかないようである。芸術家、馬鹿者にもなれない私達は実に困ったものだ。早く特効薬が見つかれば好いが、これからも難儀な話は続く。
(平和の声 通信【格物致知】2006年9月2日)