2007年01月

2007年01月27日

中嶋氏の論調は極めて正当な人権と侵害についての認識を述べているものと考える。その論調から、「編集部」に対して「よく見られる無責任で不誠実な、日本的おわびのあり方を思い出す」と手厳しく批判しているのは、尤もな言及だと私も同感する。しかし、手厳しい批判の中嶋氏ではあるが、今後、徹底批判をもって努力すると表明しているその表明には、言葉の運動性がもつ本来備わっている格闘するスタイルが見えない尻しぼみの言説で終わっているのが気がかりである。

中嶋氏は言論人として人権とメディアを考察する立場で『金曜日』と『新潮』両者のその有様を批判している。その姿勢は尊重される。しかし、それであるならば、不甲斐無いと考えられる「おわび」をよしとして「その実現のために努力していく」という事務処理的言葉に相乗りする姿勢は、いかにも90年以降の有事法制物語の現代風左翼運動の典型ではないだろうか。

何度となく「その実現のために努力していく」、「頑張ろう」のお経を唱えてきて今日の体たらくさを露呈してきた事実に対して、私たちはもっと真摯な敗北的見解に基づき今後の運動を考えたならば、もう少し恥じらいの言葉、秘めた怒りを感じさせる格闘スタイルの決意表明と、遅まきながらの何らかの対策を予見させる言い回しがあってもよかったと考える。

槍玉に挙げている『新潮』は、右派だが今日まで数々の問題提議を展開して、それなりに社会、言論界の批判に対して受けて立つという格闘の姿勢を表明してきている。メディアは倫理かの次元以前の最前線においての問題提議は、盗人にも三分の利である。言論の格闘とはこの三分の利を如何に精査するかによって、ことの本質に言及できるかの過程を持続させるかということに尽きる。この見解に立てば残念ながら『金曜日・編集部』はこの過程を放棄していると言わざるを得ない。然らば、中嶋氏のこれに相乗りする姿勢に対しては、謙虚に受け入れることが出来ないというのが私の吐露するところだ。

一般的冷静さで考えて、『新潮』のメディアに対する暴力的煽動こそ糾弾に値する。『新潮』の記事を書いた記者は、言葉は暴力の運動性を担っていることを理解できていないと思われる。しかし、よく考えれば過去の経緯から、「新潮編集部」がこの暴力性を利用していると考えた方が妥当だろう。
 何れにせよ、『新潮』への例えば「公開質問状」といったかたちでの抗議が出されなかったことが残念である。

兎に角、『金曜日』ならびに中嶋氏は言葉の運動性からくる運動の過程がやや理解不足の嫌いがないか。中嶋氏の冒頭にある、「少々時機を逸したかもしれないが、やはり一言書いておかなければと思う。」とあるが、少々どころか全く時機を逸している。時機を逸したことが敗北なので、風化させない為に書いておくでは運動のスタイルにはならない。少なくとも私達は歴史を検証しているのではないということであって、言論、表現の自由、民主主義の成熟を勝ち取る為に切磋琢磨しているという現実を一瞬忘れることに甘んじてはならないということだ。
 
尤も、週刊誌『金曜日』のもつ限界性、市民運動情報誌と定義してしまえば話は別である。たまたま、常に出てくる勇ましい言説についつい一部の読者が、言論による変改幻想を抱くところに錯覚という自己慰安の落とし穴があっての批判につながっているのかも知れない。
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2007年01月06日

遅まきながら、
「金曜日・12/22−読者のみなさんへ−」を読んで驚いた。そして、改めて「12/1−11・19緊急市民集会報告−」も読み返した。相も変らぬフレーズ「ちょっと待った!」の集会報告は写真入りで詳しく報告されているではないか。この報告からは、参加者のみなさんに誤解や不愉快な思いを抱かせる「人権侵害や差別」につながる表現があったことなど微塵も記されていない。写真での報告は、壇場に上がった司会者を含め15名の各氏の誰一人、今回の「金曜日・見解表明」に至る状況認識を持つに至っていないと感じられる。主催者、当人責任ということで、各氏は与り知らぬということだろうか。しかし、各氏の顔ぶれを拝見すると、少なくとも、他の個人、団体等の指摘を受けて「人権侵害や差別」を知る立場の人ではないと推測する。従って、集会での大雑把な合意(意思疎通と簡単な打ち合わせ)が出来ていたとも憶測される。事実、時間軸が経過している。
 主催者会議で「見解表明」を出す決定を判断したことはそれとして、参加者でない筆者が物申すのは如何なものかという趣を無視して敢えて述べる。今回の「見解表明」と他言無用の「詫状」は、2006年11月19日の出来事だったでは済まされない、日本人の天皇制に対する歴史的な決定的な「論議欠落」の再容認を駄目押しする結果を招いたと論じることができる。即ち、改憲問題において、憲法改悪を叫びながら、自民党草案の前文ならびに第一条を極力避けてきた、触らぬ神に祟りなし方式を取ってきた運動論に終止符を打つことになったということである。要するに、戦後一貫して天皇制の問題を棚に上げながら、反対勢力自身が自らなし崩し的に処してきた付けの総清算を代表して実践したと言える。また、文化人、知識人等さらに市民といわれる個人、団体の日本民主主義の程度を決定付けたと言っても過言ではない事件だということだ。従って、主催者ならびに出演コント集団は、今回の表明と詫状に対して批判もしくは糾弾に値するとの誹りを免れないことも念頭に今後を模索する必要がある。

先ず、表明への推考過程の説明、「本誌の言論とは直接の関わりがないが、・・・・・率直な見解を表明すべきだ」、また「パフォーマンスは全体としては温かな表現で、皇室批判を意図したものではないと思う。・・・・・パフォーマンスを続けてほしいという声もある。」等は、主催者として、また、常に「タブーなき、言論、表現の自由」を標榜する「週刊・金曜日」としては、思考経路の一部機能停止したものと考えさせられる。さらに、参加表現者各氏に対しても不信感を抱かざるを得ない。「見解表明」は明らかに主催者「金曜日」代表の皇室に対する見解と相容れないものがあり、市民的な問題解決への拙速論議でしかないことは理然としている。従って、参加表現者各氏ならびに主催者と参加市民の段違い的拙速論議の集会でどれ程の権力に抗する力が蓄積され、尚、弾ける力となって展開されるかは火を見るよりも明らかである。反対勢力から「ちょっと待った!」と抗議され、詫び入るようではとても国家権力に「ちょっと待った!」とはならない。所詮この次元での闘いの繰り返しでは、今後とも一向に勝利は目前と程遠い結果に終始することは見えている。しかし、だからと言って笑い種で終わらせてはならない。

 今回の件で肝に銘じておかなければならないことがある。それは、殉死した江藤淳氏のいみじくも言い得ている「日本人は、検閲のない言語空間など一度も体験していない。この閉ざされた言語空間は今も別の形で維持されている。」この指摘に尽きていることだ。特に最近、規制緩和の落とし穴、巧妙な装置が作動してより一層表現空間を透明規制が強力に働くシステムができつつある。そして、透明規制の内で判断を余儀なくされる現在時間しか持ちえない個々人に力の蓄積は無理になっている。だからと言って、私達各自の覚悟が問われる追い込まれた袋小路の状況、事実を無視することは許されない。 

下品さ
「ご皇室を敬愛される国民各位に多大な御不快の念をお与えしました。今後、ご皇室を寸劇でパロディーにしない由、堅く御約束申し上げます」、これで一件略着させた、そして、板垣恭介氏は「内容が天皇批判でも感じたことを表現するのは大いに結構だし、・・・・・自分も、場合によっては刺される覚悟で書いている。真剣な問題提起ではなく、抗議されてあわててやめるぐらいなら、最初からやるなと言いたい」で幕引きにしたいのが善良な市民というところであろうが、しかし、よく考えて頂きたい、抗議されてあわてて止めているのは、「他言無用」だけではなく、我々国民が既にとっくに止めているのが現実である。今回は最後までしつこく、ある意味で往生際の悪足掻きの結果と見ることができる。さらに、コント役者としての性もあろう、また、残滓となった声をこの時とばかりに汲み上げなければならないという気負いも手伝ってのパフォーマンスとも考えられる。それを寄ってたかって物笑い的に批判するその国民性こそ「下品さ」と呼べるもので糾弾に値する。何も、皇室を敬愛する国民の快の念だけが「上品さ」という定義の根拠はどこにもない。
 時間軸の推移は全ての事柄、意味を変質させるものだ。今日、日本人は原爆の悲劇を自らの過ち的認識に変容を余儀なく決めその方向性で、原爆を投下した米国に対して戦争責任の抗議すら忘れてしまっている。それと同じように「人権侵害や差別」の根源的な問題のありどころを検証することも忘れるかたちで放棄している。
 そこで忘れないように銘記しておく、国民である私達そのものが「人権侵害や差別」の対象であって、権力はこれらと無縁のものである。

最後に
「自民党新憲法草案 前文」の冒頭を読んで頂きたい。
『日本国民は、自らの意思と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する。
象徴天皇制は、これを維持する。』
 即ち、これからは、私達たちが自らの意思と決意に基づき、象徴天皇制を維持していくという、国民各自の宣言になっているということだ。これまで9条改憲反対の声は聞かれたが、この草案前文反対の声は残念ながら皆無に等しかったように認識している。皆さん、本当にこの前文でよいのか。大袈裟に言う訳ではないが、この機会に論議しなければ実質的に「君が代」の世界になってしまう。

 追記
 上記しているように、今回は現場に立ち会っていない。基本的に「金曜日」の集会報告と表明経緯を読むところから始まり、それに筆者の真空管ネット上で得られる情報(投稿、掲載されているブログ等)を基に論じている。(平和の声・通信 NO319 1月6日)
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