2007年03月

2007年03月27日

先ず、高齢になったろうとしみじみ我が年を思い起こすほどの年齢だろう。
もう何年も前に脳梗塞で倒れてリハビリ中だという記事を読んだ記憶が最後だった。また、野坂氏も最後だろうと思った。
記憶は定かでない、脳梗塞は2003年だと判った、4年前のことだ。4年前は過去ではなく、無かったことに等しい時空に感じている昨今だからそのように思えたのだろう。

2007年2月6日から毎日新聞朝刊で「七転び八起き」の連載を4年ぶりに再開させている、その4回目を読むことになった。相変わらずの酒談義で、芸の一つ覚えで一生飯を食っていることが改めて分かり、野坂氏の世代を想起させられた。この類で飯を食っている人間はごまんと居る。これだけ一生を通じて酒と戯れることが出来れば立派なものだ。

「ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか。二・二・ニーチェかサルトルか。みーんな悩んで大きくなった。(女性 声のみ)大きいわ、大物よ俺もお前も大物だ。」
1975年の野坂氏大ヒットのCMである。1970年は日米安保条約自動延長と赤軍の年であったと記憶する。それから5年、誰もニーチェ、サルトル、安保、赤軍のことなど覚えてはいなかったろうと思う。
記憶をたどれば私も酒を飲んでいた。

連載記事に、飲むには飲んだ酒歴だが、「あれは忘却のための薬だ。時間つぶしの小道具にすぎない。酒とは本来、大らか、平和なものだろう。」と書いている。
「大らか、平和なもの」、それはともかくとして、「時間つぶしの小道具にすぎない」ことだけは、私にとっては事実であった。
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2007年03月23日

3月20日に受信料義務化が見送られたことで安堵しているが、今のNHKの体質からすれば9月の経営方針見直しで簡単に妥協することが考えられる。受信料を義務化するということは、即ち、公共放送に徹するということであるが、肝心の「公共」の意味がNHKも政府も理解できていない。従って、改正案に出された両者の損得勘定の打算性でしか議論が展開されない為に空転した。次にくるのは政治圧力による痛みわけから屈服への道程となるだけだ。

NHKは今の日本の現況を熟知して戦前、戦後を脱却しなければならない。自らもつNHKメディアの特殊的意義を検討すれば展望が見えてくる。そして、軸足ではなく、両足を国民か政府のどちらに置くかを決めれば運営は然程難しいものでない筈だ。

実は問題を複雑化させている根本的な理由は国民自らにある。国民が受信料を支払っているにも拘わらず、NHKを国営放送と思い、国営を「公共」と勘違いしていることがそもそもの出口なしの袋小路にしている。日本人は「公共」に対する認識を「御上」と置き換えることの利便性で近代化を促進させた為に、未だにその御利益に便乗しようとしている。

日本人は、「公共」を担保する自由、普遍性、独立性という面倒な解釈を持ちたがらない一種民族的特異性を重宝している。「うまくいってきたではないか」という腰掛を依然として使用したい訳だ。変化は労力を伴う、しかし、それも必要な時があることを今の時代は要求している。

NHKは受信料義務化に住基ネットを利用したいと考えるところに御上意識が今でも明白に表れている。これまでも、これからも「大本営発表」をすると決めているのであれば、きっぱりと国民から受信料を取らず、国営放送を名乗ればよいのである。受信料の義務化で経営再建するのであれば、国民に先ず、「公共放送」の前提である「独立性」を担保する説明から始めなければならない。これがなければ現況の国民の多様なニーズに応えることは出来ない。
受信料拒否が増えることがあっても減ることはない。
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2007年03月14日

ある新聞の文化欄で、ゴッホの「医師ガシェの肖像」についての記事を目にした。タイトルは「破産で再登場した「ガシェ」となっていて、名画取引の最近の高騰ぶりを懸念している記事である。

「ガシェ」は90年バブル時代に斉藤了英氏(旧・大昭和製紙)が125億円(8250万ドル)で日本に持ち込んだことが話題になった。その後、行方不明になっていた「ガシェ」はニューヨークの投資王ウォルフガング・フロットル氏の破産で17年ぶりに世に出てきたということである。今回の売買価格は、ポロックの1億4千万ドルから推測して値踏みできないかも知れない。

ゴッホは生前中に1枚の絵も売れていない。貧困を苦にせず自我をひたすらキャンバスに定着し続けた画家である。無一文の人間が描いた絵を世界一大金持ちがその絵を持つという歴史の悪戯を誰も想像しなかったことがこれまた歴史のなせる業といえる。

ゴッホは自己の存在に全てをかけて拘った人言だ。その意味で人生最後まで正気だったといえる。自己を見失う人間より誠実に生きたといえる。

巨額に対する拘りは凡人には理解できない。凡人にはゴッホの拘りは理解できない。そして、凡人にはゴッホの絵を手元におくことの理由が解らないのである。単なる所有欲の話ではない。ただし、美術館があるから話がややこしくなる。

芸術は狂気的業からなることは理解できなくも無い。そう考えると巨額に対しての狂気的な人間の考えも解らぬでもない。人言の業は、歴史に陰陽の曼荼羅を刻むものである。

ヘンリー・ミラーはゴッホに魅せられ画家を志すが、原画が人々に鑑賞され難い状況を考え残念して作家になったと叙述している。晩年、ゴッホ的手法で「ガシェ」的自画像を晩年のゴッホの思いに自らも耽る面持ちで描いている。自画像は、芸術家の思いは同じであることを表現したような絵に仕上がっていた。

存在の運命は、自らの行方を予測せず存在すると仮定すれば、「ガシェ」の行方を追跡することの必要もなくなるだろう。
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