2007年06月
2007年06月26日
6月19日、朝日新聞文化面(定義集)に大江健三郎氏のエッセイが掲載されている。
タイトルは「アマチュア知識人の大切さ」である。大江氏は時として「知識人」に拘る発言を繰返している。「知識人」という言葉に一種の憧れを抱きつつ青春を過ごした歴史的世代は、戦後教育を受け、戦後の欧米文化の洗礼を被った者として少しは理解できる。しかし、1970年前後して「知識人」は綻ぶ、もしくは崩壊といった表現がつきまとっていたようにうろ覚えしている。
正面きって「知識人」という言葉を誇らしげに語る現在人も少ないのではないだろうか。
タイトルの「アマチュア知識人の大切さ」は、「専門の研究と日々の実績を重ねた後、社会の現状と進み行きに憂慮する者として、それぞれの専門から踏み出して協働する人たち(アマチュア知識人)の大切さです。」と定義づけられている。
「専門」と「アマチュア」という対比表現は、現在社会においていびつな様態を生み出しかねない響きがある。科学、工業技術の専門は止まることのない進化を継げている、これは事実である。単純に日進月歩の世界だ。しかし、こと人間社会の生活構築に関しては、技術的な予測に基づく日進月歩の世界とは反比例的、もしくは繰り返し的でしかないのが現実である。
言わんとするところは、世界、社会という人間が直接関与するところにおいては、「専門」と「アマチュア」という両義語の介在する余地がない。もしくは混在してしまっている個々人の集積という定義が妥当と見なしてもよい。
「実力と勇気をそなえた批判者」という定義も、「専門」と「アマチュア」という両義語の介在する余地がない。それは、実力も勇気も、「社会の現状と進み行きに憂慮する」個々の問題に対して個人がどれだけ真摯に対峙して実践していくかで実力と勇気がつくられるからだ。
近年、小説家の世界というものが理解できなくなってきたが、知識人、アマチュア知識人などと定義づける文学者の考えている世界への理解が遠のくばかりだ。
大江氏の決定的な希望への持続は敬服するが、しかし、「平和」ということにおいても、「9条の会」の増加数値に反比例した日本の戦争加担が深刻さを増幅させているのが現実である。憲法9条を守ることの当たり前が、日本が単独で戦争しないことを担保しているように見せかけている。
日本人の良心は、実は米軍と共であれば戦争も致し方ないという理解を前提にしつつある現実を創っている。
大江氏は「教育基本法が改訂された時、アマチュア知識人が強い声を発し始めるはず」、と書いたが、現実は、「世界」5月号の憲法発布60周年の丸谷才一氏と長谷部恭男氏の特集対談「改憲論と御霊信仰」の如し有様である。専門家による、掘り起こせばやはりこうでしかなかったというお粗末な話であった。これが、大江氏と世代的にもお仲間の現実の声である。なかなか批判者の強い声を期待する土壌にもはや日本はないと覚悟する考えになってしまう。残念ながら圧倒的希望への持続とはいかない。
大江氏の決定的希望への持続は、精神のどこからくるのだろうか。
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参考に、 大江健三郎 「アマチュア知識人の大切さ」(6月19日、朝日新聞文化欄 「定義集」)を掲載
「ロシア・ポーランド文学の研究で世界的な友人から東大教養学部の学生の、文学部へ進学する数がじり貧なので、どのような志望を抱いてフランス文学科に入ったか話してもらいたい、と依頼がありました。
私は、高校2年で読んだ本の著者の教室へ行こう、と希望しただけなので、強いて言えば「知識人になるたに」めだった、という講演をしたのです。(記録は『すばる』8月号)、先生や友人の話に熱中して、寄せられた質問に答える時間をなくしました。
遅ればせながら、その幾つかに答えます。
1,あなたは、老年ですがどんな年金をうけていますか? と言う時事的なトピックのものから。
同業者に文化功労者や芸術院会員の、また同級生に大学教授を勤め上げて、年金を受けている人はいますが、私はありません。
長男の「心身障害者扶養年金」へ240回払い込みましたが、石原都政が制度を廃止したので私らの死後彼にも年金はあたりません。
2,大学の理学部他での専門研究を発展させて、その成果をあげ、政府・企業に『取り込まれる』立場にもなった専門家たちに、あなたは冷淡な様でしたが、この国に(世界にさえ)経済的発展をもたらしたのは、彼らではありませんか?
そういう人たちにも、また自立して陽の当たらぬ場所で力をつくしていられる専門家たちにも、私は、敬意を持っています。
国や大学が専門家の要請に資金を投ずるのにも賛成です。
私が強調したのは、エドワード・サイードの意見ですが、最先端から地道なものまで、専門の研究と日々の実績を重ねた後、社会の現状と進み行きに憂慮する者として、それぞれの専門から踏み出して協働する人たち(アマチュアとしての知識人)の大切さです。
かれらは実力と勇気をそなえた批判者で、時に政府・企業とも対立します。
私は、原爆被害者の医療に長年従事され、欧米でもよく知られている、核廃絶の理論家の老医師の方に、憲法「九条の会」の集まりで偶然お会いした感銘を忘れません。
(中略)
教育基本法が改訂された時、この勢いに乗って、政府・企業に「取り込まれる」タイプの専門家たちが(かならずしも教育の専門家でなくとも)強い声を発し始めるはず、と思いました。
そこで私は子供のための薄い本の一冊に、教育のアマチュアであることを自覚した上での、批判的な呼びかけを書き込もうと思っています。」
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タイトルは「アマチュア知識人の大切さ」である。大江氏は時として「知識人」に拘る発言を繰返している。「知識人」という言葉に一種の憧れを抱きつつ青春を過ごした歴史的世代は、戦後教育を受け、戦後の欧米文化の洗礼を被った者として少しは理解できる。しかし、1970年前後して「知識人」は綻ぶ、もしくは崩壊といった表現がつきまとっていたようにうろ覚えしている。
正面きって「知識人」という言葉を誇らしげに語る現在人も少ないのではないだろうか。
タイトルの「アマチュア知識人の大切さ」は、「専門の研究と日々の実績を重ねた後、社会の現状と進み行きに憂慮する者として、それぞれの専門から踏み出して協働する人たち(アマチュア知識人)の大切さです。」と定義づけられている。
「専門」と「アマチュア」という対比表現は、現在社会においていびつな様態を生み出しかねない響きがある。科学、工業技術の専門は止まることのない進化を継げている、これは事実である。単純に日進月歩の世界だ。しかし、こと人間社会の生活構築に関しては、技術的な予測に基づく日進月歩の世界とは反比例的、もしくは繰り返し的でしかないのが現実である。
言わんとするところは、世界、社会という人間が直接関与するところにおいては、「専門」と「アマチュア」という両義語の介在する余地がない。もしくは混在してしまっている個々人の集積という定義が妥当と見なしてもよい。
「実力と勇気をそなえた批判者」という定義も、「専門」と「アマチュア」という両義語の介在する余地がない。それは、実力も勇気も、「社会の現状と進み行きに憂慮する」個々の問題に対して個人がどれだけ真摯に対峙して実践していくかで実力と勇気がつくられるからだ。
近年、小説家の世界というものが理解できなくなってきたが、知識人、アマチュア知識人などと定義づける文学者の考えている世界への理解が遠のくばかりだ。
大江氏の決定的な希望への持続は敬服するが、しかし、「平和」ということにおいても、「9条の会」の増加数値に反比例した日本の戦争加担が深刻さを増幅させているのが現実である。憲法9条を守ることの当たり前が、日本が単独で戦争しないことを担保しているように見せかけている。
日本人の良心は、実は米軍と共であれば戦争も致し方ないという理解を前提にしつつある現実を創っている。
大江氏は「教育基本法が改訂された時、アマチュア知識人が強い声を発し始めるはず」、と書いたが、現実は、「世界」5月号の憲法発布60周年の丸谷才一氏と長谷部恭男氏の特集対談「改憲論と御霊信仰」の如し有様である。専門家による、掘り起こせばやはりこうでしかなかったというお粗末な話であった。これが、大江氏と世代的にもお仲間の現実の声である。なかなか批判者の強い声を期待する土壌にもはや日本はないと覚悟する考えになってしまう。残念ながら圧倒的希望への持続とはいかない。
大江氏の決定的希望への持続は、精神のどこからくるのだろうか。
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参考に、 大江健三郎 「アマチュア知識人の大切さ」(6月19日、朝日新聞文化欄 「定義集」)を掲載
「ロシア・ポーランド文学の研究で世界的な友人から東大教養学部の学生の、文学部へ進学する数がじり貧なので、どのような志望を抱いてフランス文学科に入ったか話してもらいたい、と依頼がありました。
私は、高校2年で読んだ本の著者の教室へ行こう、と希望しただけなので、強いて言えば「知識人になるたに」めだった、という講演をしたのです。(記録は『すばる』8月号)、先生や友人の話に熱中して、寄せられた質問に答える時間をなくしました。
遅ればせながら、その幾つかに答えます。
1,あなたは、老年ですがどんな年金をうけていますか? と言う時事的なトピックのものから。
同業者に文化功労者や芸術院会員の、また同級生に大学教授を勤め上げて、年金を受けている人はいますが、私はありません。
長男の「心身障害者扶養年金」へ240回払い込みましたが、石原都政が制度を廃止したので私らの死後彼にも年金はあたりません。
2,大学の理学部他での専門研究を発展させて、その成果をあげ、政府・企業に『取り込まれる』立場にもなった専門家たちに、あなたは冷淡な様でしたが、この国に(世界にさえ)経済的発展をもたらしたのは、彼らではありませんか?
そういう人たちにも、また自立して陽の当たらぬ場所で力をつくしていられる専門家たちにも、私は、敬意を持っています。
国や大学が専門家の要請に資金を投ずるのにも賛成です。
私が強調したのは、エドワード・サイードの意見ですが、最先端から地道なものまで、専門の研究と日々の実績を重ねた後、社会の現状と進み行きに憂慮する者として、それぞれの専門から踏み出して協働する人たち(アマチュアとしての知識人)の大切さです。
かれらは実力と勇気をそなえた批判者で、時に政府・企業とも対立します。
私は、原爆被害者の医療に長年従事され、欧米でもよく知られている、核廃絶の理論家の老医師の方に、憲法「九条の会」の集まりで偶然お会いした感銘を忘れません。
(中略)
教育基本法が改訂された時、この勢いに乗って、政府・企業に「取り込まれる」タイプの専門家たちが(かならずしも教育の専門家でなくとも)強い声を発し始めるはず、と思いました。
そこで私は子供のための薄い本の一冊に、教育のアマチュアであることを自覚した上での、批判的な呼びかけを書き込もうと思っています。」
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