週刊・金曜日 1月26日号、中嶋啓明氏の「人権とメディア」について

中嶋氏の論調は極めて正当な人権と侵害についての認識を述べているものと考える。その論調から、「編集部」に対して「よく見られる無責任で不誠実な、日本的おわびのあり方を思い出す」と手厳しく批判しているのは、尤もな言及だと私も同感する。しかし、手厳しい批判の中嶋氏ではあるが、今後、徹底批判をもって努力すると表明しているその表明には、言葉の運動性がもつ本来備わっている格闘するスタイルが見えない尻しぼみの言説で終わっているのが気がかりである。

中嶋氏は言論人として人権とメディアを考察する立場で『金曜日』と『新潮』両者のその有様を批判している。その姿勢は尊重される。しかし、それであるならば、不甲斐無いと考えられる「おわび」をよしとして「その実現のために努力していく」という事務処理的言葉に相乗りする姿勢は、いかにも90年以降の有事法制物語の現代風左翼運動の典型ではないだろうか。

何度となく「その実現のために努力していく」、「頑張ろう」のお経を唱えてきて今日の体たらくさを露呈してきた事実に対して、私たちはもっと真摯な敗北的見解に基づき今後の運動を考えたならば、もう少し恥じらいの言葉、秘めた怒りを感じさせる格闘スタイルの決意表明と、遅まきながらの何らかの対策を予見させる言い回しがあってもよかったと考える。

槍玉に挙げている『新潮』は、右派だが今日まで数々の問題提議を展開して、それなりに社会、言論界の批判に対して受けて立つという格闘の姿勢を表明してきている。メディアは倫理かの次元以前の最前線においての問題提議は、盗人にも三分の利である。言論の格闘とはこの三分の利を如何に精査するかによって、ことの本質に言及できるかの過程を持続させるかということに尽きる。この見解に立てば残念ながら『金曜日・編集部』はこの過程を放棄していると言わざるを得ない。然らば、中嶋氏のこれに相乗りする姿勢に対しては、謙虚に受け入れることが出来ないというのが私の吐露するところだ。

一般的冷静さで考えて、『新潮』のメディアに対する暴力的煽動こそ糾弾に値する。『新潮』の記事を書いた記者は、言葉は暴力の運動性を担っていることを理解できていないと思われる。しかし、よく考えれば過去の経緯から、「新潮編集部」がこの暴力性を利用していると考えた方が妥当だろう。
 何れにせよ、『新潮』への例えば「公開質問状」といったかたちでの抗議が出されなかったことが残念である。

兎に角、『金曜日』ならびに中嶋氏は言葉の運動性からくる運動の過程がやや理解不足の嫌いがないか。中嶋氏の冒頭にある、「少々時機を逸したかもしれないが、やはり一言書いておかなければと思う。」とあるが、少々どころか全く時機を逸している。時機を逸したことが敗北なので、風化させない為に書いておくでは運動のスタイルにはならない。少なくとも私達は歴史を検証しているのではないということであって、言論、表現の自由、民主主義の成熟を勝ち取る為に切磋琢磨しているという現実を一瞬忘れることに甘んじてはならないということだ。
 
尤も、週刊誌『金曜日』のもつ限界性、市民運動情報誌と定義してしまえば話は別である。たまたま、常に出てくる勇ましい言説についつい一部の読者が、言論による変改幻想を抱くところに錯覚という自己慰安の落とし穴があっての批判につながっているのかも知れない。