2006年08月13日
度胸試し 8月15日 靖国参拝
8月15日を1週間前に控え、いよいよ靖国問題周辺は緊迫の度を高めてきた。先日も小泉首相は5年前の公約は生きていると記者の前で断言した。宣戦布告である。飽く迄も「個人の問題」で突破するつもりだ。それにしても情けないのは、首相周辺の懲りない面々である。なかでも一際驚かせたのが、安部晋三官房長官である。4月4日早朝靖国神社に参拝したことが広報された。自民党政権は靖国問題を政争の具にしないと公言して憚らないのに、きっちり総裁選向けた次期総理確定の意思表示を行ったのには唖然とさせられた。それとさらに逆撫でさせてくれたことは、本人が、モーニングスタイルで肩書きを記帳していながら、「行くか、行かないか、参拝したかしないかについて申し上げるつもりはない。」と私人の立場での参拝は全く問題がないと断定していることである。この発言は既に一端の総理大臣気分で宣う厚顔ぶりを発揮したもので、小泉首相の「個人の自由ですから」より以上に国民を愚弄、挑発したものであるといえる。今からこれである。ふてぶてしく「制裁」という言葉しかしらない三世議員の若造に、食い散らかされた日本社会構造の後片付けが出来るわけがない。
日本の総理と靖国神社の関係はもはや異常な問題に発展している。その関係において問題にしなければならない状況、次元をかけ離れてしまい、要するに、国際的、国内問題を打っ棄て、完全に個人の問題に集約させている。この過程に導いた小泉首相はこの面において長けた戦略家といえる。極めて本人の好きな心の領域だ。一国の代表が個人の感性にこれ程まで拘る特性を持っていたことを知らなかった国民を嘲ってみても後の祭りだ。国の在りようよりも、組長としての個人の美意識完成への確執に賭けた男を総理在任最長にした、バブル後の国民潜在意識がドラマ性でしかなかったことの証明になった。それが確かなことは、現実社会がこれだけ絶望、不安材料が出揃ったオンパレードにも拘らず小泉首相の支持率がアップしていることである。
現実、国民は何を見たがっているのか不透明な雲行きになってきた。決して亀田ボクシングドラマに心酔したとは思えない結果状況、物語だけを見たい訳ではないのも事実である。娯楽に厳しく、政治に肝要、諦め体質が出来つつあるのかも知れない。脱派閥での一匹オオカミ的首相のイメージが、国民一個人の奮闘と重ねて同情心がそうさせていることもあるが。しかしもはや、国民は共有すべき社会性が欠落している状況を体現しているのかもしれない。だから、次期総裁候補の安部晋三官房長官に興味を全く抱かない現象に繋がっているのだろう。全てが見た目判断と家柄、肩書きでの即断先行型社会形成が顕著になっている現在、他に対する依存現象もまた顕著なものとなりつつある。そうでなければ、何の政策的解決能力も持ち合わせていない人間に誰も反対せず、やすやす席を譲る状況を皆で作ったりはしないだろう。大人が勝ち馬に乗る風潮を決定的に演じれば子供に真似をするなといっても負け組みの遠吠えにもならない。これをあべこべという。
歴史は、往々にして一人の遊戯性に満ちた度胸試しで多くの国民を戦渦に巻き込んだことは論を俟たない。小泉純一郎首相もそのうちの一人だ。
昔から、「三つ子の魂百まで」と云われるが、正にやくざの血は争えないものだ。度胸試しに尽きる。しかし、小泉首相の度胸は大したものだ。6月30日のプレスリー詣でのパフォーマンスは世界の歴代代表の誰も真似の出来ないものであった。また、サミットでのウオッカの飲みっぷりも群を抜いて下手なパフォーマンスをやらかした。負けじと誘発されたブッシュ大統領が突然背後からメルケルドイツ首相の肩揉みをして驚愕させた。我が世の春だ。
総じて、「個人の自由」であり「個人の問題」である。この事態は、小泉純一郎は一国の首相ではなく、一個人であることに自ら徹しているのが現状である。だから最後の極め付き「天皇ご自身のこころの問題」発言に至るのである。しかし、近代日本においてこれだけきっぱりと天皇について真正面から発言をした政府関係者は居ただろうか。それだけ小泉純一郎は「度胸」が据わっているのだ。自身、餓鬼のころから「度胸試し」の訓練を続けているのだろう。大したものだ。そして、表舞台での小泉純一郎最後の度胸試しが開幕しようとしている。歴史認識、社会的価値判断等など微塵も考えていない。ただただ「度胸試し」に措いてのみ自己の存在を確信できない哀れな男なのだ。しかし、この哀れさが国民一人一人の共有する接点を支えている。
昨日から、大小の抗議集会、デモが靖国周辺で行われている。まさに今回は靖国参拝反対の真価が問われる反対抗議行動になる。こちらも「度胸試し」だ。断じて小泉首相の参拝を許してはならない。
既に韓国からの応援も到着している。無様な「度胸のない」抗議は繰返されない状況になりつつある。
既に、平和遺族会全国連絡会の代表、西川重則氏は「「もしも小泉首相が今年の8月15日に6回目の参拝を繰返せば、想像を絶した出来事となることは避けられない。」と宣言している。
行く、阻止するの「度胸試し」だ。何れも譲れない個人的、歴史的背景がある。
小泉首相に告げる。「度胸がある」と「勇気がある」を混同してはいないか。真の勇者は字の如く「勇気がある」ほうだ。実行するより中止する方が数倍勇気が必要とすることがある。思い出せ、勇気を弄び、決断を遅らし日本の全土を焼き野原にしてしまったではないか。
国民は既に「度胸」のあることは認めている。最後に見たいのは「勇者」であるかということだ。
小泉首相、英断せよ。
(平和の声 通信 【格物致知】2006年8月13日)
日本の総理と靖国神社の関係はもはや異常な問題に発展している。その関係において問題にしなければならない状況、次元をかけ離れてしまい、要するに、国際的、国内問題を打っ棄て、完全に個人の問題に集約させている。この過程に導いた小泉首相はこの面において長けた戦略家といえる。極めて本人の好きな心の領域だ。一国の代表が個人の感性にこれ程まで拘る特性を持っていたことを知らなかった国民を嘲ってみても後の祭りだ。国の在りようよりも、組長としての個人の美意識完成への確執に賭けた男を総理在任最長にした、バブル後の国民潜在意識がドラマ性でしかなかったことの証明になった。それが確かなことは、現実社会がこれだけ絶望、不安材料が出揃ったオンパレードにも拘らず小泉首相の支持率がアップしていることである。
現実、国民は何を見たがっているのか不透明な雲行きになってきた。決して亀田ボクシングドラマに心酔したとは思えない結果状況、物語だけを見たい訳ではないのも事実である。娯楽に厳しく、政治に肝要、諦め体質が出来つつあるのかも知れない。脱派閥での一匹オオカミ的首相のイメージが、国民一個人の奮闘と重ねて同情心がそうさせていることもあるが。しかしもはや、国民は共有すべき社会性が欠落している状況を体現しているのかもしれない。だから、次期総裁候補の安部晋三官房長官に興味を全く抱かない現象に繋がっているのだろう。全てが見た目判断と家柄、肩書きでの即断先行型社会形成が顕著になっている現在、他に対する依存現象もまた顕著なものとなりつつある。そうでなければ、何の政策的解決能力も持ち合わせていない人間に誰も反対せず、やすやす席を譲る状況を皆で作ったりはしないだろう。大人が勝ち馬に乗る風潮を決定的に演じれば子供に真似をするなといっても負け組みの遠吠えにもならない。これをあべこべという。
歴史は、往々にして一人の遊戯性に満ちた度胸試しで多くの国民を戦渦に巻き込んだことは論を俟たない。小泉純一郎首相もそのうちの一人だ。
昔から、「三つ子の魂百まで」と云われるが、正にやくざの血は争えないものだ。度胸試しに尽きる。しかし、小泉首相の度胸は大したものだ。6月30日のプレスリー詣でのパフォーマンスは世界の歴代代表の誰も真似の出来ないものであった。また、サミットでのウオッカの飲みっぷりも群を抜いて下手なパフォーマンスをやらかした。負けじと誘発されたブッシュ大統領が突然背後からメルケルドイツ首相の肩揉みをして驚愕させた。我が世の春だ。
総じて、「個人の自由」であり「個人の問題」である。この事態は、小泉純一郎は一国の首相ではなく、一個人であることに自ら徹しているのが現状である。だから最後の極め付き「天皇ご自身のこころの問題」発言に至るのである。しかし、近代日本においてこれだけきっぱりと天皇について真正面から発言をした政府関係者は居ただろうか。それだけ小泉純一郎は「度胸」が据わっているのだ。自身、餓鬼のころから「度胸試し」の訓練を続けているのだろう。大したものだ。そして、表舞台での小泉純一郎最後の度胸試しが開幕しようとしている。歴史認識、社会的価値判断等など微塵も考えていない。ただただ「度胸試し」に措いてのみ自己の存在を確信できない哀れな男なのだ。しかし、この哀れさが国民一人一人の共有する接点を支えている。
昨日から、大小の抗議集会、デモが靖国周辺で行われている。まさに今回は靖国参拝反対の真価が問われる反対抗議行動になる。こちらも「度胸試し」だ。断じて小泉首相の参拝を許してはならない。
既に韓国からの応援も到着している。無様な「度胸のない」抗議は繰返されない状況になりつつある。
既に、平和遺族会全国連絡会の代表、西川重則氏は「「もしも小泉首相が今年の8月15日に6回目の参拝を繰返せば、想像を絶した出来事となることは避けられない。」と宣言している。
行く、阻止するの「度胸試し」だ。何れも譲れない個人的、歴史的背景がある。
小泉首相に告げる。「度胸がある」と「勇気がある」を混同してはいないか。真の勇者は字の如く「勇気がある」ほうだ。実行するより中止する方が数倍勇気が必要とすることがある。思い出せ、勇気を弄び、決断を遅らし日本の全土を焼き野原にしてしまったではないか。
国民は既に「度胸」のあることは認めている。最後に見たいのは「勇者」であるかということだ。
小泉首相、英断せよ。
(平和の声 通信 【格物致知】2006年8月13日)