2004年08月08日
「9条の会」と運動論
袋小路の状況にもめげずに益々精力的な取り組みに何と言ったらよいのか、驚嘆にしておきましょう。ただ、ニーチェがそうだったように死期が近づくに従い能力がフル回転していく人的メカニズムが気になりますが。私は前回で紹介したドン・キホーテとニーチェは発想の原点が同じだと、それは「超人」への憧れであり、自己求心性意思の権化と推測、そのように最近、貴女のことを理解するに至っている。
「会」の発足と憲法九条を守る運動について
先ず、御大のお出ましとなった「九条の会」の事務局は、「ワールド・ピース・ナウ」であり、その事務局は「許すな 憲法改悪・市民連絡会」ということになっている。7月24日の講演会への殺到した平和を愛する善良な人々は、「7.4ピース・ナウ」パレードの参加者であり、そのまま移行したものだから、講演会のお知らせと同時に5千人のファンが申し込んだというのが現実である。
そして、現在呼びかけが効を奏しつつある。この経緯は、先日ピース・ナウで3人の逮捕者を出したのを契機に高田氏にカンパを送り、かつ今後の費用について相談に乗ると連絡しておいた、挨拶代わりに届いたのが、にこやかな9人の先生方の写真入ポスターだった訳である。
私の直ぐイメージしたのが、池田大作のポスターを送られた学会員である。笑えないこのシニカルな状況を考えれば日本人の原初的、民族的有り様がこの袋小路に至っても同じだという認識に立たざるを得ない。正に創価学会の構図である。もうそろそろご本尊崇拝、各自のミニ仏壇を自宅 (本棚) に整頓させる信条を止めたいところだが、「長いものには巻かれろ」、相変わらず裾をぞろぞろと引きずっている。
正直言って、大江さん、鶴見さん、いまさら「九条の会」はないでしょう。せめてもの良心の発露。思い立ったが吉日でもないでしょうに。とにかく共産党は後追い運動に終始している、状況に右往左往されないしぶとさが真骨頂と言わんばかりだが、一度洪水による苔落としをやらなければどうにも治まらない状況だと考えるが。国土省ですら人口洪水を考える時世である。
損得勘定に終始する「日本の団体」と「九条を守る」運動について
私達がこの春から実践した「意見広告・運動」について言えば、これはかなり地域的なこともあると思いますが、先ず組合(連合)は全く賛同の対象にならなかったことである。彼らにすれば、民主党である限り憲法改正に反対を表面化することは自己矛盾を呈することで反って正直だったといえる。また、「人権尊重、差別をなくそう」を標榜している全国的団体は、「事務局の私達は九条を守ることに賛成です。しかし、団体は民主党です」、と明言した。
これらから察するに、日本人の心は「平和」を求めるが、体はそうではないことになる。そして、この心体矛盾説は、現在日本の状況において全く矛盾することなく、生きる為の正当防衛になっている。その極端な現われが、日本を代表する小泉首相と周辺の嘘つき政治屋である。これを認めている私達周辺も大なり小なりの正当防衛基準を有しながら生きながらえている。やはり、日本人はいつまで経っても加害者意識を持つことなく歴史を刻むことになる。
2大政党制と「九条を守る」運動について
『自民・民主の「2大政党制」は私たちの政治意思を正しく反映していません。「生物も多様性−政党も多様性」』
「私たちの政治意思」について
上記したように、「人権尊重、差別をなくそう」が2大政党制を形成しつつある状況を考えれば、ここでいう「私たちの政治意思」とは少数者の意思と理解、少数者になったと言うのが正確である。「生物も多様性」が日本で本格的に論じられて15年になる。そして「共生」という言葉も定着した。しかし、その「共生」の意味もはや色あせた隷属関係を前面にでた解釈論になっている。
「政党も多様性」という場合、今日では「政権交代」を意味する言葉になりつつある。多様なあり方は先ず政権が交代することの条件を打ち出している。この解釈が市民権を得て一気に2大政党制への拍車を掛けることになった。市民権は2大政党制に味方したのである。
従って、「私たちの政治意思」は蚊帳の外に置かれたのも同然、「九条を守る」ことはご本尊を奉る運動になってしまったとはいえないか。ここから土井たか子の「正しく改憲することには賛成です」という意味不明な文言が飛び出してきた背景、冒頭で書いた「袋小路」の意味がある。また、宗教化した運動には落とし穴がある。運動と現実の乖離をどこまで埋められるか、蚊帳の外である以上、埋められない場合の覚悟も必要である。
「会」発足の前日に出鼻を挫く言及になっていますが、八方塞がりの運動展開が見えてこない状況であることは事実である。しかし、こまねいている訳にもいかず、同じような合意の宣言文の下に召集を掛けて日程のやりくりをするよりも、兎に角、今は、一人でも〈平和の声〉を上げることが「九条改正」を阻止することになると念じて、7月5日から毎週月曜日、反戦行動・チラシ配布を実践している。
「水と森と平和の声」は一人で十分実践できる。幸い3人、5人の時もあり、また、早々2回目には嬉しい意見を頂いた。同じちらしを撒くなという貴重なご意見を頂き、早速裏面は時事速報に変えた。受け取りもイラク開戦当時とはいかないがまずまずであり、特に学生、若者相手に配布することを心掛けている。おもしろいという弾みがつく実践が継続できる要因だと思う。
おもしろいと言うのは、選挙結果と同じような反応が体感でき、悲劇と喜劇が混在した精神状況にあって常にどちらでも良いとしか考えられない日常を私達が共有していることが手にとって体感できることだ。実践は「おもしろい、スリル」なものでなくては継続できない。
「会」という連なっての先人の後をたどる運動では、今日の状況を打破出来ないのは証明済みである。然りとて啓蒙活動もないだろうし、同志らしき連中と慰め合うひと時を持つほど焼きが回った訳でもあるまい。兎に角、心体が一心同体になっていない矛盾論を生きている市民に対して、白黒を明白にさせる状況を作り出すか、待つかである。
この状況に及んで、「九条」自体の言葉が喪失すると言って(大江氏)焦ることもなければ、孤立を恐れて連帯に融合、最善なる欺瞞に隠れ蓑を求めることはない。忘れてはならないのは、孤立を恐れているのは常に市民である。その際たる兆候が今日の2大政党制への弾みであり、恐れからは恐ろしい結果しか生まれないことは歴史が証明済みである。
「九条の会・おおがき」発足に向けての餞のつもりが、とんだ意見の言及になった。これも貴女に対する激励の方法書として理解して頂き、飽く迄も自己の表現、運動家というよりも芸人に徹して欲しいとの願いからである。
「会」の発足と憲法九条を守る運動について
先ず、御大のお出ましとなった「九条の会」の事務局は、「ワールド・ピース・ナウ」であり、その事務局は「許すな 憲法改悪・市民連絡会」ということになっている。7月24日の講演会への殺到した平和を愛する善良な人々は、「7.4ピース・ナウ」パレードの参加者であり、そのまま移行したものだから、講演会のお知らせと同時に5千人のファンが申し込んだというのが現実である。
そして、現在呼びかけが効を奏しつつある。この経緯は、先日ピース・ナウで3人の逮捕者を出したのを契機に高田氏にカンパを送り、かつ今後の費用について相談に乗ると連絡しておいた、挨拶代わりに届いたのが、にこやかな9人の先生方の写真入ポスターだった訳である。
私の直ぐイメージしたのが、池田大作のポスターを送られた学会員である。笑えないこのシニカルな状況を考えれば日本人の原初的、民族的有り様がこの袋小路に至っても同じだという認識に立たざるを得ない。正に創価学会の構図である。もうそろそろご本尊崇拝、各自のミニ仏壇を自宅 (本棚) に整頓させる信条を止めたいところだが、「長いものには巻かれろ」、相変わらず裾をぞろぞろと引きずっている。
正直言って、大江さん、鶴見さん、いまさら「九条の会」はないでしょう。せめてもの良心の発露。思い立ったが吉日でもないでしょうに。とにかく共産党は後追い運動に終始している、状況に右往左往されないしぶとさが真骨頂と言わんばかりだが、一度洪水による苔落としをやらなければどうにも治まらない状況だと考えるが。国土省ですら人口洪水を考える時世である。
損得勘定に終始する「日本の団体」と「九条を守る」運動について
私達がこの春から実践した「意見広告・運動」について言えば、これはかなり地域的なこともあると思いますが、先ず組合(連合)は全く賛同の対象にならなかったことである。彼らにすれば、民主党である限り憲法改正に反対を表面化することは自己矛盾を呈することで反って正直だったといえる。また、「人権尊重、差別をなくそう」を標榜している全国的団体は、「事務局の私達は九条を守ることに賛成です。しかし、団体は民主党です」、と明言した。
これらから察するに、日本人の心は「平和」を求めるが、体はそうではないことになる。そして、この心体矛盾説は、現在日本の状況において全く矛盾することなく、生きる為の正当防衛になっている。その極端な現われが、日本を代表する小泉首相と周辺の嘘つき政治屋である。これを認めている私達周辺も大なり小なりの正当防衛基準を有しながら生きながらえている。やはり、日本人はいつまで経っても加害者意識を持つことなく歴史を刻むことになる。
2大政党制と「九条を守る」運動について
『自民・民主の「2大政党制」は私たちの政治意思を正しく反映していません。「生物も多様性−政党も多様性」』
「私たちの政治意思」について
上記したように、「人権尊重、差別をなくそう」が2大政党制を形成しつつある状況を考えれば、ここでいう「私たちの政治意思」とは少数者の意思と理解、少数者になったと言うのが正確である。「生物も多様性」が日本で本格的に論じられて15年になる。そして「共生」という言葉も定着した。しかし、その「共生」の意味もはや色あせた隷属関係を前面にでた解釈論になっている。
「政党も多様性」という場合、今日では「政権交代」を意味する言葉になりつつある。多様なあり方は先ず政権が交代することの条件を打ち出している。この解釈が市民権を得て一気に2大政党制への拍車を掛けることになった。市民権は2大政党制に味方したのである。
従って、「私たちの政治意思」は蚊帳の外に置かれたのも同然、「九条を守る」ことはご本尊を奉る運動になってしまったとはいえないか。ここから土井たか子の「正しく改憲することには賛成です」という意味不明な文言が飛び出してきた背景、冒頭で書いた「袋小路」の意味がある。また、宗教化した運動には落とし穴がある。運動と現実の乖離をどこまで埋められるか、蚊帳の外である以上、埋められない場合の覚悟も必要である。
「会」発足の前日に出鼻を挫く言及になっていますが、八方塞がりの運動展開が見えてこない状況であることは事実である。しかし、こまねいている訳にもいかず、同じような合意の宣言文の下に召集を掛けて日程のやりくりをするよりも、兎に角、今は、一人でも〈平和の声〉を上げることが「九条改正」を阻止することになると念じて、7月5日から毎週月曜日、反戦行動・チラシ配布を実践している。
「水と森と平和の声」は一人で十分実践できる。幸い3人、5人の時もあり、また、早々2回目には嬉しい意見を頂いた。同じちらしを撒くなという貴重なご意見を頂き、早速裏面は時事速報に変えた。受け取りもイラク開戦当時とはいかないがまずまずであり、特に学生、若者相手に配布することを心掛けている。おもしろいという弾みがつく実践が継続できる要因だと思う。
おもしろいと言うのは、選挙結果と同じような反応が体感でき、悲劇と喜劇が混在した精神状況にあって常にどちらでも良いとしか考えられない日常を私達が共有していることが手にとって体感できることだ。実践は「おもしろい、スリル」なものでなくては継続できない。
「会」という連なっての先人の後をたどる運動では、今日の状況を打破出来ないのは証明済みである。然りとて啓蒙活動もないだろうし、同志らしき連中と慰め合うひと時を持つほど焼きが回った訳でもあるまい。兎に角、心体が一心同体になっていない矛盾論を生きている市民に対して、白黒を明白にさせる状況を作り出すか、待つかである。
この状況に及んで、「九条」自体の言葉が喪失すると言って(大江氏)焦ることもなければ、孤立を恐れて連帯に融合、最善なる欺瞞に隠れ蓑を求めることはない。忘れてはならないのは、孤立を恐れているのは常に市民である。その際たる兆候が今日の2大政党制への弾みであり、恐れからは恐ろしい結果しか生まれないことは歴史が証明済みである。
「九条の会・おおがき」発足に向けての餞のつもりが、とんだ意見の言及になった。これも貴女に対する激励の方法書として理解して頂き、飽く迄も自己の表現、運動家というよりも芸人に徹して欲しいとの願いからである。