コメンテーターの傍観 釜ケ崎事件

19日朝日テレビ「スーパーモーニング」は、釜ケ崎抗議録画を放映して事件経緯を一部紹介した。
コメンテーターの反応は、鳥越俊太郎氏はじめ2名は黙秘にちかく、作家の江上剛氏一人が、ワーキングプア若者層と絡め、「彼らも釜ケ崎日雇い労働者に見習い元気よく、これぐらいの抗議をしなくては」と「暴力」抗議を容認、助長する発言をおこなった。

すると、司会者はじめコメンテーター一同に「それはよくない」とする否定的状況空間をつくりだし、あからさまに視線パッシングを向けた、それにめげずに発言を続けるも、完全に干されたことに気付き中断してしまった。
18日テレビ「ムーブ」の「釜ヶ崎抗議事件」の報道も同じことがいえる。前日の産経新聞のサイト写真記事にもあるようにかなり激しい衝突の模様が放映された。しかし、衝撃的な映像に反して、注目のコメンテーターの発言は極めて冷静よりも冷めたものであった。勝谷成彦氏、鈴木邦夫氏だが、発言が極めて少なく、控えめ、異次元の出来事のような説明になっていたのが印象的だった。鈴木氏は「元気があっていいんじゃないか、警察もこれぐらいはやらせたほうがよい」と発言した。要するに、釜ヶ崎の日雇い労働者はもはやマイノリティーの括弧つき存在理由しかないと断定しているのだ。番組全体の状況空間は、生活保護を受けなければやっていけないナンギな存在かのようなニュアンスを残すものでしかなかった。

放映された衝撃的な映像と完全に遊離した発言に釜ヶ崎問題の時間の推移を改めて感じさせられた。このテレビ放映一つとってしても最早、釜ケ崎日雇い労働者問題は、地域的特異現象に矮小化されてしまっている。

問題は、鳥越俊太郎氏が記者時代にあいりん地区担当として少なからず問題に直面した経緯があるにもかかわらず、発言が無かったことと、相変らずの稲垣浩氏が街宣抗議による道路交通法違反と煽動罪で逮捕されたことである。この逮捕劇は何度も同じパターンで繰返されている。
基本的な問題は、事件と難題を報道する、論じる立ち位置の存在が情報という超近代化空間で富を築いてきた抗議(問題)のなかで、搾取ではない自然媒体の流れ(延長上)において完全に労働化された対価利潤でない、目に見えない新手の利潤蓄積を良しとしてきた経緯と、問題解決に真正面から対峙(突撃)してきたその結果が、超近代主義は「暴力」排除の協議過程で収束を図ろうとするも、時間経緯のうちに社会闇に葬りさる最後手段を黙認してきたことにある。

富める「流動」は歴史をある種展望型改革に繋げることに継続性を担保しているが、貧する「枯渇」は本来の変革であるにも拘らず、悪戯にも歴史は抹消の方向性を与え続ける結果を招いている。

「秋葉原」の衝撃、「暴力」の象徴性を肯定できないと前提すればコメンテーターの発言はやむを得ないと理解したら良いのだろうが、しかし、私たちが「暴力」性を自己規制、排除してしまったら、それは言葉の終焉を自ら招くことを覚悟しなければならない。

ある種問題における「暴力」は解消するにこしたことはないが、「暴力」そのものを否定、抹消することは、権力に私たちを「人民」化すること、生贄とすることをよしとすることに加担することだ。
歴史は「暴力」を懐胎している、それこそ多様な暴力で常に始動している、その点を肝に銘じて、共傷を覚悟で語らなければならない。でなければ、ますます「希望は戦争」を助長することになる。即ち、前近代的深層による「戦争」を誘発する基盤を新たに再生産することになる。


西成署に抗議呼びかけの労働組合委員長逮捕 西成騒動(0618朝日新聞)

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