秋葉原無差別攻撃事件を考える

事件から一月以上が経ち、マスコミからニュース性が消えた観があり、それと同時に事件日も記憶から遠いものになっていくようだ。昔のように49日どころか2週間が最近のニュース消費期限になってしまった。
7月4日毎日新聞に「論点・秋葉原連続殺傷事件を考える」特集が掲載されていた。そのなかで作家高村薫氏の論点が目をひいた、ややショッキングなタイトルは「少しの偶然で起きた」というものだ。その他には「絶望招く非正規雇用」など掲載されていたが、家庭環境論など出涸らしのお茶の如く食がそそらない、常識的な枠で解釈したい意図があからさまな論点タイトルになっていた。

「少しの偶然で起きた」とは、今後も起こるであろう予測と現在社会における自己周辺に遍在している蓋然性の大きいことを暗に主張して、さらに青年の内に秘めた起爆剤すら予見する。

高村薫氏はこの論で、現在共同体の価値体系を厳しく批判して、乖離した青年層への同情とも受けとめる躊躇いを『私たち大人には、彼らの暴走を大声で憂える資格はない。』、さらに、『この都市空間と消費生活のありようそのものを異様だと思うべきである。』と指摘している。

歴史は暴力的であり、政治は常に暴力装置そのものでしかありえない現実を前提に、常に権力者、時代の共同体は「暴力廃止論」に徹底を配し、人々を蹂躙してきた。そして、暴力を悪として、暴力には暴力をもって善とする権力者の因習を社会正義として人々にすり込んできた。
しかし、いつの時代においても青年の世代は、時代の共同体から疎外され、排除、無視され、それに対する反発エネルギーで多人格的生命力を活きてきた。疎外の領域は、この都市空間特有の異様さだけではない。

現在、大人に変革を求める無意味さを思い知った青年たちは、無我夢中という暴力的エネルギーでどのような革命が可能なのか企ててみるのも生き様である。そして、青年は衝突を暴力的に語ることが必要だ。

これからの社会は、私たちが想像する以上に複雑化して衝突する。そこには「少しの偶然で起きた」蓋然性がより常態化して、間接的加害者としての自己を知ることになるだろう。
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