国民は祈っている暇がない

1月28日号「サピオ」ゴー宣スペシャル第2章は「雅子妃への祈り」になっている。内容は漫画だから特に言及する必要もないし、いくら「ごーまんかましてよかですか」と聞かれてもお好きなようにというしかない。

天皇、皇室が日本の存在意義として広く定着している現実から、その理由については、多くの国民は理解を示してきている。また、その理解は、組織としての宮内庁、皇室というよりも、「天皇」という地位に対する認識が共有できているからと考えられる。つまり、国民は、天皇とは「祭祀によって国の平安と民の安寧を祈る、無私の存在。」というキャッチフレーズを常識的に受け入れている。

多神教の総本山的ニュアンスもある皇室も、1300年以上まえから日本国に安定してきている歴史的現実からみて、祭祀による「国、国民」との繋がりは極めて相互に重要な関係性を持つ。しかし、その実践者は天皇であり皇后が象徴であることから、その家族についてはいささか理解が違って来ているのが現在の社会である。

ある識者によると、戦後、開かれた皇室、庶民とともに歩む天皇在りよう論が、今日の皇室批判の混乱を招いていると指摘している。つまり、「神と神の子孫」が下々の下種社会をうろうろするものではない、地方被災地巡業も含め出歩くことを禁止する説だ。結構昔から強硬な主張としてある。現在は、天皇を始めとして皇室のあらゆる言動についてリアルタイムに報道されることが可能な状況である。また、これについてマスコミ含め国民からも議論応酬は、オープンな状況を呈してきている。

戦後のこのような状況に至った要因は、戦後民主主義を掲げる認識力が、「公」に対する厳しい眼差しをもったことによるところが大きいように考える。つまり、国民の税金を投入して運営するあらゆる組織に対しての国民の眼差しである。

そこで、小林氏の「雅子妃への祈り」について告げておくことがある。『我々国民が、私利私欲にまみれ、退廃した自由に魂を弛緩させている分際で、雅子妃の苦悩を批判する資格などありはしない。こんなときこそ、国民が皇室のために祈っていればいいのだ。』と小林氏は言い放っているが。そもそも国民は正体がわからない自由と魂で私利私欲的に生きているものだ。他者への批判は、人間の計り知れない生のエネルギーから派生するもので、誰にもそれは止めることはできない。「資格」の問題ではないのだ。ただ、他者の弱み、苦悩、不幸ごとに対してこの傾向は顕著になることは否めない現実である。しかし、これも人間の性として共有しているのが一般社会である。

小林氏自身が12月17日号「サピオ」の「ゴー宣・言論封殺魔の謀略」で「ごーまんかまして」いっている、批判に対して『わしの口封じをしようとしたオウム真理教以来のことだ!わしは、このような謀略は絶対に許さない!』と宣っている。すると、国民の口封じの言動は、「謀略」ということになり、小林氏自身率先して「絶対に許さない」と立ち上がらなければならない筈なのだが、『こんなときこそ、国民が皇室のために祈っていればいいのだ。』と能天気な教示を宣っている。

国民に納税義務を課して政に興味を抱けば、その件については、黙って祈ってろとはどういう魂胆か。漫画の世界では「ごーまんかまして」自他共に悦に入ってればよいが、こと政に関してはそうはいかない。国民は納税者であり、主権者なのだ。小林氏もこの原点をしっかりと認識して、「漫画を描いてまともな収入を得られる国」日本で人気稼業に励んで頂きたい。それでなくても、山崎行太郎氏からも『マンガ脳で、政治や思想をマンガ的に語る勿れ!』と『マンガで政治や歴史を語る「マンガ右翼・小林よしのり」の時代は終わった』(小林よしのりに告ぐ)と引導を渡されている身であるのだから。

国民は、総じて日常生活に追われっぱなしで、日常において不平、不満の愚痴はただ多いが、祈るとなるとご先祖さまでもなかなか時間などもてないのが現実だ。いわんや、皇室を祈る暇などない。