2月3日発行の「斎藤吉久・誤解だらけの天皇・皇室」vol.68は『「悪しき先例」を踏襲する宮内庁』のタイトルで、昨年暮れの天皇の「急性胃粘膜病変」の発症から具体的に進められてきた祭祀の簡略化ついて、斎藤氏が見解を表明している。
29日各紙は、宮内庁は天皇陛下の負担軽減策の指針を発表したと報じた。宮内庁の発表は「今後の御公務および宮中祭祀の進め方について」と題されサイトに掲載されている。斎藤氏は今回の御達しは、宮内庁は戦後の占領軍政策そのものだと指摘して、本来の天皇の在るべき為来りは、「御公務」ではなく「宮中祭祀」にあると断言している。これについては、「SAPIO」2月18日号の昭和天皇崩御20年の特集号で簡略的に説明をしている。
今回のサブタイトルの『昭和の簡素化は「ご高齢」が理由ではない』という説明だ。簡略化が始まる昭和43年は、昭和天皇は60歳代で欧州始め訪米も果たし、順調に天皇行為を果たしている。さらに、第84代の順徳天皇のまとめた「禁秘抄」にある「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事をあとにす」に倣い、「宮中祭祀」に熱心に取り組んでいたと書いている。
ところが、宮内庁は「宮中祭祀」を犠牲にして「御公務」を優先させたと批判しているのだ。宮内庁は確かに戦後いわれ続けた「政教分離の原則」を踏襲したものではある。これは占領軍の国家宗教としての「天皇」神憑り説を解体する目的からではあるが、当時の政府の苦肉の策として「宮中祭祀は皇室の私事」として「政教分離」を乗り切った背景があるといわれる。ところが今回は、「私事」よりも「公務」を完全なかたちで今後続けていくという布石を敷いたと解釈できる。
斉藤氏は『宮内庁が何食わぬ顔で、昭和期の悪しき先例を踏襲するのは、前例を盾にした反対封じであり、あってはならない伝統破壊の正当化にほかなりません。』、『国事行為の臨時代行とは直ちに飛躍しないまでも、法的根拠や伝統的裏づけがあるわけでもない御公務のお出ましを削減し、あるいは御名代として皇太子殿下を立てるという方法がなぜ検討されないのでしょうか』と苦慮する批判を述べて、また、昭和58年の福田恒存氏のコメント『「私には冗談としか思えません。……天皇の祭祀は個人のことを祈るわけではなく、国家のことを祈るわけですからね。もしこんなことを宮内庁が続けるとしたら、陛下を宮内庁から救出する落下傘部隊が要りますねえ」(「週刊文春」)とコメントしたのですが、いまこそ陛下を救う落下傘部隊が必要のようです。』と攻撃的な発言で結んでいる。
「陛下を救う落下傘部隊」の必要性については、改めて推敲するとして、今回の宮内庁の施策については問題のありどころを明確にしておきたい。問題の核心は、「公」か「私」の天皇の位置づけにある。つまり、公資金(税金)による天皇の象徴管理を宮内庁が国民にとって変わり実施することで天皇制の維持安泰を画策するものとしたら、大きな間違いだということだ。これまでの単純な「公務」が国民と天皇を結び付けているとする考えは理解できる。しかし、皇室はロイヤルファミリーではないのだ。ここをしっかり押さえておかなければとんでもないことになる。
日本におけるこれまであまたの権力は、天皇を利用したきた歴史でもある。しかし、そうかといって戦後63年経った今、今度は国民が天皇を利用してもよいということにはならない。また、そんなことはあってはならない。戦後のなんとか平和である今でこそ天皇は、本来の天皇伝統を国民の前に現前させ、国民ともロイヤルファミリーとも違うことを体現させなければならないのだ。天皇存在は、国民にとっても、天皇にとっても覚悟のいる有りようなのだ。この次元から天皇の「公平無私」であるとか「絶対無私」の世界がもつ意味が発生する。つまり今後論じなければならない「人格」と「自由」の問題である。今回の宮内庁の発表を簡単に我田引水したくなる多くの国民の心境も分かるが、それを許せば、要するに皇太子夫婦の夫婦間理由による犬も食わぬ、雅子妃が嫌う「宮中祭祀」の単なる簡略策かの失笑を買うだけである。そんなことに「私」の税金は使えない。
「私たち」は、「落下傘部隊」の必要性も含めて、ここは一番、真摯に宮内庁の画策を検証しなければ未来永劫「貧しさ」から抜け出せないぞ。
29日各紙は、宮内庁は天皇陛下の負担軽減策の指針を発表したと報じた。宮内庁の発表は「今後の御公務および宮中祭祀の進め方について」と題されサイトに掲載されている。斎藤氏は今回の御達しは、宮内庁は戦後の占領軍政策そのものだと指摘して、本来の天皇の在るべき為来りは、「御公務」ではなく「宮中祭祀」にあると断言している。これについては、「SAPIO」2月18日号の昭和天皇崩御20年の特集号で簡略的に説明をしている。
今回のサブタイトルの『昭和の簡素化は「ご高齢」が理由ではない』という説明だ。簡略化が始まる昭和43年は、昭和天皇は60歳代で欧州始め訪米も果たし、順調に天皇行為を果たしている。さらに、第84代の順徳天皇のまとめた「禁秘抄」にある「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事をあとにす」に倣い、「宮中祭祀」に熱心に取り組んでいたと書いている。
ところが、宮内庁は「宮中祭祀」を犠牲にして「御公務」を優先させたと批判しているのだ。宮内庁は確かに戦後いわれ続けた「政教分離の原則」を踏襲したものではある。これは占領軍の国家宗教としての「天皇」神憑り説を解体する目的からではあるが、当時の政府の苦肉の策として「宮中祭祀は皇室の私事」として「政教分離」を乗り切った背景があるといわれる。ところが今回は、「私事」よりも「公務」を完全なかたちで今後続けていくという布石を敷いたと解釈できる。
斉藤氏は『宮内庁が何食わぬ顔で、昭和期の悪しき先例を踏襲するのは、前例を盾にした反対封じであり、あってはならない伝統破壊の正当化にほかなりません。』、『国事行為の臨時代行とは直ちに飛躍しないまでも、法的根拠や伝統的裏づけがあるわけでもない御公務のお出ましを削減し、あるいは御名代として皇太子殿下を立てるという方法がなぜ検討されないのでしょうか』と苦慮する批判を述べて、また、昭和58年の福田恒存氏のコメント『「私には冗談としか思えません。……天皇の祭祀は個人のことを祈るわけではなく、国家のことを祈るわけですからね。もしこんなことを宮内庁が続けるとしたら、陛下を宮内庁から救出する落下傘部隊が要りますねえ」(「週刊文春」)とコメントしたのですが、いまこそ陛下を救う落下傘部隊が必要のようです。』と攻撃的な発言で結んでいる。
「陛下を救う落下傘部隊」の必要性については、改めて推敲するとして、今回の宮内庁の施策については問題のありどころを明確にしておきたい。問題の核心は、「公」か「私」の天皇の位置づけにある。つまり、公資金(税金)による天皇の象徴管理を宮内庁が国民にとって変わり実施することで天皇制の維持安泰を画策するものとしたら、大きな間違いだということだ。これまでの単純な「公務」が国民と天皇を結び付けているとする考えは理解できる。しかし、皇室はロイヤルファミリーではないのだ。ここをしっかり押さえておかなければとんでもないことになる。
日本におけるこれまであまたの権力は、天皇を利用したきた歴史でもある。しかし、そうかといって戦後63年経った今、今度は国民が天皇を利用してもよいということにはならない。また、そんなことはあってはならない。戦後のなんとか平和である今でこそ天皇は、本来の天皇伝統を国民の前に現前させ、国民ともロイヤルファミリーとも違うことを体現させなければならないのだ。天皇存在は、国民にとっても、天皇にとっても覚悟のいる有りようなのだ。この次元から天皇の「公平無私」であるとか「絶対無私」の世界がもつ意味が発生する。つまり今後論じなければならない「人格」と「自由」の問題である。今回の宮内庁の発表を簡単に我田引水したくなる多くの国民の心境も分かるが、それを許せば、要するに皇太子夫婦の夫婦間理由による犬も食わぬ、雅子妃が嫌う「宮中祭祀」の単なる簡略策かの失笑を買うだけである。そんなことに「私」の税金は使えない。
「私たち」は、「落下傘部隊」の必要性も含めて、ここは一番、真摯に宮内庁の画策を検証しなければ未来永劫「貧しさ」から抜け出せないぞ。