2月17日発行の「斎藤吉久・誤解だらけの天皇・皇室」vol.70は『次元の低い皇室ジャーナリズム』のタイトルで、2月5日、皇太子殿下のベトナム公式訪問記者会見での宮内記者会の質問をめぐって、その後の対応について斎藤氏の見解を表明している。既に当ブログは、2月11日「宮内記者会抗議は当然だ」のタイトルで宮内記者会の対応を当然だと是認している。
斎藤氏は皇室ジャーナリズの次元の低さを「かみ合わない質問と回答」、「国民の知る権利?」、 「文書回答で十分」の三項目で宮内記者会ならびに謝罪会見を行った東宮大夫に対して批判と不快感を顕にしている。そこで、各項目を検討して斎藤氏の言い分を検証してみる。
先ず、「かみ合わない質問と回答」であるが、予め質問を三問申し合わせていた訳だが、殿下のご公務見直しについて、天皇陛下と雅子妃殿下のストレスによるご病気説についての二問を皇太子殿下は答えなかった。推測するには、斎藤氏はベトナム公式訪問についての抱負を会見する場であって、天皇陛下と雅子妃殿下の巷の下種の勘繰りについて回答する必要が初めからないと考えている。もしそうであったとしたら斎藤氏の見解も解らないでもない。
しかし、問題は、宮内記者会は予め宮内庁に質問項目を提出していて、了解されている。当然その質問について何らかの回答が得られるものと期待して会見に臨んでいる訳で、「時間切れです、はい、これでおしまい」では子供の走り使いということになる。但し、「時間切れおしまい、悪しからず」が慣例化しているというのであれば話は別である。しかし、野村一成東宮大夫が謝罪したというのであれば、そこは阿吽の呼吸で宮内記者会の意向も反映されて然るべしということになる。
次に「国民の知る権利?」について、斎藤氏の結論は、今流行の「笑っちゃうぐらいにあきれる」というものだ。時代錯誤の御仁がわざわざマスコミに吹聴した台詞だが、かなり辛辣な批判だ。この項目で、斎藤氏は私が推測した「ベトナム公式訪問についての抱負を会見する場」であることを強調している。斎藤氏の下記文言で十分そのことが読み取れる。
『この会見はベトナム訪問を前にセットされています。とすれば、会見は第1問とその回答ですでに終わっています。第2問の妃殿下に関することは、わざわざ会見で聞く必要もないでしょう。従来通りの、おおかた予想される以上の答えが殿下ご自身の口から返ってくるはずはありません。会見であえて問うことは挑発なのでしょう。』、『第3問にいたっては、そもそもこの会見に相応しい質問とは思われません。このような質問を「代表質問」として許しているところに、私は宮内官僚の無能を感じます。事前の打ち合わせ段階で拒否すべきです。』(次元の低い皇室ジャーナリズム)
つまり、後の二問は、挑発であり相応しい質問でない、低次元のジャーナリズムだと叱責している。詰まるところ、「国民の知る権利?」、「笑っちゃうぐらいにあきれる」ということになるのだ。そこで、そもそも論になるが、宮内担当記者を問わず、記者なるものは、当事者の周辺、また延長線上の問題を機会ある都度、「挑発」なり「誘導」なりを問わず知ることを求めるのが普通の仕事になっているのだ。挑発するな、気を利かせ、空気を読めなどの了解範疇では、わざわざ会見に出かけることもない。それこそ各社が当事者からファックスなどで意見を求めたらよいことになる。プロの記者というものは、会見においても取材の場と考え、情報を受け取る側の「知る魅力」に応えていくのが使命である。この記者魂のどこが低次元のジャーナリズムなのか理解に苦しむ。
最後の「文書回答で十分」ということだが、斎藤氏はそもそも宮内庁官僚の無能さ、『事前の打ち合わせ段階で拒否すべきです。』と叱責している。さらに、『このような会見が「国民の知る権利」を根拠に行われるのは偽善以外の何ものでもありません。』ともいっている。従って、『東宮大夫は謝罪をする必要はありません。会見も不要です。文書回答で十分です。』という宮内庁官僚への叱責となる。残念ながら上記の文言からは、斎藤氏の世間に対する硬直した発想しか感じられない、木を見て森を見ない国民不在の天皇祭祀論者としかみえない。それこそ、時代錯誤の御仁が宣う今流行の「笑っちゃうぐらいにあきれる」ということにならないようにご忠告する。
そもそも宮内庁は、国民の血税でなりたっている一つの官僚組織に過ぎない。斎藤氏が考えている天皇の宮内庁ではないのだ。従って、東宮大夫の謝罪会見があったということを理解しておかなければ元の木阿弥になる。文化論、歴史論、さらにユーモアも必要である。しかし、先ず実直な国民感情というものがある。それが現在『ギスギスした雰囲気』であってもそれは謙虚に受け入れなければならない。既に、斎藤氏もご存知のように、保坂正康氏は「秋篠宮が天皇になる日」(文芸春秋2月号)で、あたかも秋篠宮が次の天皇継承者になるがごとき内容の論考を発表するご時世である。これを受けて、「WiLL」3月号で西尾幹二氏は「皇室問題と日本の分水嶺」で反論を展開する状況は、国民は挙って皇太子殿下の一挙一動を注視してあたりまえ、それを『ギスギスした雰囲気』と忌み嫌って現実を避ける訳にはいかなくなっている。
従って、「宮内記者会抗議は当然だ」において述べているように、「皇太子殿下の考えを聞かせて欲しいという記者の質問は、即国民の質問でもある訳で、国民の知る権利を妨害されたとあっては、報道の一大事であるから当然厳重な抗議文となったと推測される。・・・・・やはり、その現況において適切な判断の下に心境を述べて頂くことが誠意ある回答ということにつながる。」。
斎藤氏は、記者会見は殿下と記者が堂々と文化論を渡り合い、教養談義の会見にすればよかったと指摘しているが、皇太子殿下の会見はそう都度あるわけではない。だからどうしても国民の傍焼き嫉視の関心ごとに質問がいくのである。例え『ギスギスした雰囲気』であってもそれが現実であり、「国民の知る権利」を根拠に行われる偽善でもなんでもない。現実の状況は、『ギスギスした雰囲気』でありながら日本国の象徴として天皇を受け入れている日本社会そのものである。
斎藤氏は皇室ジャーナリズの次元の低さを「かみ合わない質問と回答」、「国民の知る権利?」、 「文書回答で十分」の三項目で宮内記者会ならびに謝罪会見を行った東宮大夫に対して批判と不快感を顕にしている。そこで、各項目を検討して斎藤氏の言い分を検証してみる。
先ず、「かみ合わない質問と回答」であるが、予め質問を三問申し合わせていた訳だが、殿下のご公務見直しについて、天皇陛下と雅子妃殿下のストレスによるご病気説についての二問を皇太子殿下は答えなかった。推測するには、斎藤氏はベトナム公式訪問についての抱負を会見する場であって、天皇陛下と雅子妃殿下の巷の下種の勘繰りについて回答する必要が初めからないと考えている。もしそうであったとしたら斎藤氏の見解も解らないでもない。
しかし、問題は、宮内記者会は予め宮内庁に質問項目を提出していて、了解されている。当然その質問について何らかの回答が得られるものと期待して会見に臨んでいる訳で、「時間切れです、はい、これでおしまい」では子供の走り使いということになる。但し、「時間切れおしまい、悪しからず」が慣例化しているというのであれば話は別である。しかし、野村一成東宮大夫が謝罪したというのであれば、そこは阿吽の呼吸で宮内記者会の意向も反映されて然るべしということになる。
次に「国民の知る権利?」について、斎藤氏の結論は、今流行の「笑っちゃうぐらいにあきれる」というものだ。時代錯誤の御仁がわざわざマスコミに吹聴した台詞だが、かなり辛辣な批判だ。この項目で、斎藤氏は私が推測した「ベトナム公式訪問についての抱負を会見する場」であることを強調している。斎藤氏の下記文言で十分そのことが読み取れる。
『この会見はベトナム訪問を前にセットされています。とすれば、会見は第1問とその回答ですでに終わっています。第2問の妃殿下に関することは、わざわざ会見で聞く必要もないでしょう。従来通りの、おおかた予想される以上の答えが殿下ご自身の口から返ってくるはずはありません。会見であえて問うことは挑発なのでしょう。』、『第3問にいたっては、そもそもこの会見に相応しい質問とは思われません。このような質問を「代表質問」として許しているところに、私は宮内官僚の無能を感じます。事前の打ち合わせ段階で拒否すべきです。』(次元の低い皇室ジャーナリズム)
つまり、後の二問は、挑発であり相応しい質問でない、低次元のジャーナリズムだと叱責している。詰まるところ、「国民の知る権利?」、「笑っちゃうぐらいにあきれる」ということになるのだ。そこで、そもそも論になるが、宮内担当記者を問わず、記者なるものは、当事者の周辺、また延長線上の問題を機会ある都度、「挑発」なり「誘導」なりを問わず知ることを求めるのが普通の仕事になっているのだ。挑発するな、気を利かせ、空気を読めなどの了解範疇では、わざわざ会見に出かけることもない。それこそ各社が当事者からファックスなどで意見を求めたらよいことになる。プロの記者というものは、会見においても取材の場と考え、情報を受け取る側の「知る魅力」に応えていくのが使命である。この記者魂のどこが低次元のジャーナリズムなのか理解に苦しむ。
最後の「文書回答で十分」ということだが、斎藤氏はそもそも宮内庁官僚の無能さ、『事前の打ち合わせ段階で拒否すべきです。』と叱責している。さらに、『このような会見が「国民の知る権利」を根拠に行われるのは偽善以外の何ものでもありません。』ともいっている。従って、『東宮大夫は謝罪をする必要はありません。会見も不要です。文書回答で十分です。』という宮内庁官僚への叱責となる。残念ながら上記の文言からは、斎藤氏の世間に対する硬直した発想しか感じられない、木を見て森を見ない国民不在の天皇祭祀論者としかみえない。それこそ、時代錯誤の御仁が宣う今流行の「笑っちゃうぐらいにあきれる」ということにならないようにご忠告する。
そもそも宮内庁は、国民の血税でなりたっている一つの官僚組織に過ぎない。斎藤氏が考えている天皇の宮内庁ではないのだ。従って、東宮大夫の謝罪会見があったということを理解しておかなければ元の木阿弥になる。文化論、歴史論、さらにユーモアも必要である。しかし、先ず実直な国民感情というものがある。それが現在『ギスギスした雰囲気』であってもそれは謙虚に受け入れなければならない。既に、斎藤氏もご存知のように、保坂正康氏は「秋篠宮が天皇になる日」(文芸春秋2月号)で、あたかも秋篠宮が次の天皇継承者になるがごとき内容の論考を発表するご時世である。これを受けて、「WiLL」3月号で西尾幹二氏は「皇室問題と日本の分水嶺」で反論を展開する状況は、国民は挙って皇太子殿下の一挙一動を注視してあたりまえ、それを『ギスギスした雰囲気』と忌み嫌って現実を避ける訳にはいかなくなっている。
従って、「宮内記者会抗議は当然だ」において述べているように、「皇太子殿下の考えを聞かせて欲しいという記者の質問は、即国民の質問でもある訳で、国民の知る権利を妨害されたとあっては、報道の一大事であるから当然厳重な抗議文となったと推測される。・・・・・やはり、その現況において適切な判断の下に心境を述べて頂くことが誠意ある回答ということにつながる。」。
斎藤氏は、記者会見は殿下と記者が堂々と文化論を渡り合い、教養談義の会見にすればよかったと指摘しているが、皇太子殿下の会見はそう都度あるわけではない。だからどうしても国民の傍焼き嫉視の関心ごとに質問がいくのである。例え『ギスギスした雰囲気』であってもそれが現実であり、「国民の知る権利」を根拠に行われる偽善でもなんでもない。現実の状況は、『ギスギスした雰囲気』でありながら日本国の象徴として天皇を受け入れている日本社会そのものである。
