早速だが、「鳩山菅密約による小沢氏失脚工作真相が表面化」などの6月1日謀略などある筈がない。鳩山氏は母親、嫁から始まり周辺取り巻きに至るまでひたすら信じることだけを生きがいにしてきた男である、小沢氏を失脚させるなどの芸当ができる訳がない、出来るぐらいなら、先祖の墓にペンキを掛けられたり、大恥を掻いたりの辞任劇をもっとマシな格好で幕引きを演じられていた筈だ。菅氏にしてもいえることだが、こと大事な選挙に7回も落選することもなかろう。両者共に政治的絵を描くのは極めて下手な部類といえる。
植草氏が「政権交代」の意義を一番に掲げる政策に、「対米隷属からの脱却」を訴えている。失礼な言い方だが、最近つくづく見掛けによらない「自主防衛論者」だと感心する次第だ。その点からして、小沢氏の反米的と見られる言動に感服しているのだろう。今までの保守政党の議員にしては貴重な存在に映るのだろうか。
そこで、昨日あたりから、菅首相、枝野幹事長の鳩山前政権での「普天間日米合意」継承発言は、よほど看過できないものと考えるのだろう。枝野幹事長に対しては、「普天間問題対米隷属継続を宣言する枝野幹事長」と名指し駄目押しして、菅首相は『菅氏が就任したのは、アメリカ合衆国日本州知事か、アメリカ合衆国領日本総督府総統でしかない。』とメタメタに決めつけられている。要するに、「アメリカに魂を売った」というプロパガンダ攻撃に徹し始めているのだ。
そこで、この辺で植草氏に盲信から醒めた頂き、国民主権の「政権交代」が本来的な意義のもつ政治展望を語ってもらいたい為に、辛辣極まりない忠言をする。ここで改めて述べておくが、筆者は植草氏の主張発信には常々関心を抱き賛同することが多い。ただ、小沢氏のことになると途端に冷静さを失い理性的でないもう一人の植草氏が顔を出すので困っているのだ。自ら魔物に取り付かれたように、せっかくの展望を敢えてミスリードするかたちになっている。
植草氏の主張する「対米隷属からの脱却」は、恐らく戦後の日本人の内に秘められた願望であったと考えられる。筆者も戦後と共に生きてきた訳だが、好い加減な指摘になるが、どうも近年、ここ15年ないし20年の歳月によって、この願望が粉々に飛散する傾向になっているように思えて仕方がない。これは単に60年、70年代における悲惨な政治的事件から比較しての話ではなく、相対的文化論の拡大解釈によるゲンダイ社会といわれる現前する現象から大凡の判断でしかないのだが。
民主主義といわれるある種厄介な時間をもってから、何ごとも政治決着でしかその方向性を見いだせない社会に造りあげてしまった私たちは、その意味で「国」は政治家といわれる統治管轄に束ねられている。その意味で国民から選ばれた政治家は、善し悪しに係わらず「国」であり、私たちの方向性である訳だ。このことを例えば前提にして考えた場合、植草氏の指摘する、『小沢一郎氏が異常な集中攻撃を浴びてきたのは、小沢氏だけが日本の自主独立を実現し得る人物であるからだと考えられる。』との発言は、微妙なニュアンスをもつと感じなくもない。
しかし、これには注意を喚起する必要がある。つまり、何時も例に出される、社会党の「自衛隊違憲論」である。そして、近年、日米同盟が深化するほどに、「自衛隊の皆さん ごくろうさんです」といってご挨拶を繰り広げるのが慣習になってしまった。つまり、ここ20年程度の歳月で国民のほとんど90%近くを示すが、自衛隊の存在を認め、必要であるとの認識を確立するに至ったという現実を指しているのである。しかし、70年安保時代の終焉以後も依然として「自衛隊違憲論」が何となく国民に浸透、余韻としてあった。しかし、その意識の溶解はやはり20年前から始まっていたとみることができる。自衛隊の積極的容認の風潮は、1990年に発生した湾岸戦争をきっかけとして、さらに、その後の引き続き起こった震災での活躍などで急速に市民権を得る存在に変貌、第2次湾岸戦争(イラク戦争)を体験することで完全にその存在意義を決定付けたと見ることが出来る。
ここからが問題である。つまり、小沢氏の自衛隊海外派遣構想は、当初、米国の後方支援活動として始まり、多国籍軍への本格的参入というシナリオにおいて、米国にいうべきことを言っていくという自主独立路線を構想している(これは現在の中心的閣僚のほとんど、岡田氏、前原氏らを筆頭に考えている)訳だが、そもそも論として、自衛隊海外派遣と自主独立とはもともと関係のない話である。
現在は、日米同盟による後方支援隊として自衛隊を位置づけてきているが、例え多国籍軍の自衛隊(自衛軍)としても、多国籍が戦争状態になるその引き金は、常に米軍の先制攻撃的戦争の範疇で行われるのがほとんどである訳だから、多国籍自衛隊であっても、常に米軍の後方支援部隊という役割は拭えない訳で、日本の戦争でないにも係わらず戦争をする実態は、やはり、米国の属国としてあり続けることと余り変わらない訳だ。
従って、小沢氏の吹聴する自主独立も現状の日本と大して代わり映えしないものということになる。であれば、何も『小沢氏だけが日本の自主独立を実現し得る人物である』などと大そう大げさな、神懸かり的な言い回しはしない方がよい。その思考プロセスにより、植草氏の「政権交代」に懸ける民主主義運動に汚名を与える結果を招くことになる。
時代はもはや小沢氏を必要としていない。また。小沢流政治といわれる戦後の自民党的政治の体質は改善ではなく、払拭されなければならないのだ。そして、時代はその方向性を示唆し始めている。それは菅政権に対する期待として、今や歴然としたかたちで現前してきている。兎に角、ポスト小沢政治が始まっているのだ。植草氏はその方向性を冷静に受け止める必要がある。
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植草氏が「政権交代」の意義を一番に掲げる政策に、「対米隷属からの脱却」を訴えている。失礼な言い方だが、最近つくづく見掛けによらない「自主防衛論者」だと感心する次第だ。その点からして、小沢氏の反米的と見られる言動に感服しているのだろう。今までの保守政党の議員にしては貴重な存在に映るのだろうか。
そこで、昨日あたりから、菅首相、枝野幹事長の鳩山前政権での「普天間日米合意」継承発言は、よほど看過できないものと考えるのだろう。枝野幹事長に対しては、「普天間問題対米隷属継続を宣言する枝野幹事長」と名指し駄目押しして、菅首相は『菅氏が就任したのは、アメリカ合衆国日本州知事か、アメリカ合衆国領日本総督府総統でしかない。』とメタメタに決めつけられている。要するに、「アメリカに魂を売った」というプロパガンダ攻撃に徹し始めているのだ。
そこで、この辺で植草氏に盲信から醒めた頂き、国民主権の「政権交代」が本来的な意義のもつ政治展望を語ってもらいたい為に、辛辣極まりない忠言をする。ここで改めて述べておくが、筆者は植草氏の主張発信には常々関心を抱き賛同することが多い。ただ、小沢氏のことになると途端に冷静さを失い理性的でないもう一人の植草氏が顔を出すので困っているのだ。自ら魔物に取り付かれたように、せっかくの展望を敢えてミスリードするかたちになっている。
植草氏の主張する「対米隷属からの脱却」は、恐らく戦後の日本人の内に秘められた願望であったと考えられる。筆者も戦後と共に生きてきた訳だが、好い加減な指摘になるが、どうも近年、ここ15年ないし20年の歳月によって、この願望が粉々に飛散する傾向になっているように思えて仕方がない。これは単に60年、70年代における悲惨な政治的事件から比較しての話ではなく、相対的文化論の拡大解釈によるゲンダイ社会といわれる現前する現象から大凡の判断でしかないのだが。
民主主義といわれるある種厄介な時間をもってから、何ごとも政治決着でしかその方向性を見いだせない社会に造りあげてしまった私たちは、その意味で「国」は政治家といわれる統治管轄に束ねられている。その意味で国民から選ばれた政治家は、善し悪しに係わらず「国」であり、私たちの方向性である訳だ。このことを例えば前提にして考えた場合、植草氏の指摘する、『小沢一郎氏が異常な集中攻撃を浴びてきたのは、小沢氏だけが日本の自主独立を実現し得る人物であるからだと考えられる。』との発言は、微妙なニュアンスをもつと感じなくもない。
しかし、これには注意を喚起する必要がある。つまり、何時も例に出される、社会党の「自衛隊違憲論」である。そして、近年、日米同盟が深化するほどに、「自衛隊の皆さん ごくろうさんです」といってご挨拶を繰り広げるのが慣習になってしまった。つまり、ここ20年程度の歳月で国民のほとんど90%近くを示すが、自衛隊の存在を認め、必要であるとの認識を確立するに至ったという現実を指しているのである。しかし、70年安保時代の終焉以後も依然として「自衛隊違憲論」が何となく国民に浸透、余韻としてあった。しかし、その意識の溶解はやはり20年前から始まっていたとみることができる。自衛隊の積極的容認の風潮は、1990年に発生した湾岸戦争をきっかけとして、さらに、その後の引き続き起こった震災での活躍などで急速に市民権を得る存在に変貌、第2次湾岸戦争(イラク戦争)を体験することで完全にその存在意義を決定付けたと見ることが出来る。
ここからが問題である。つまり、小沢氏の自衛隊海外派遣構想は、当初、米国の後方支援活動として始まり、多国籍軍への本格的参入というシナリオにおいて、米国にいうべきことを言っていくという自主独立路線を構想している(これは現在の中心的閣僚のほとんど、岡田氏、前原氏らを筆頭に考えている)訳だが、そもそも論として、自衛隊海外派遣と自主独立とはもともと関係のない話である。
現在は、日米同盟による後方支援隊として自衛隊を位置づけてきているが、例え多国籍軍の自衛隊(自衛軍)としても、多国籍が戦争状態になるその引き金は、常に米軍の先制攻撃的戦争の範疇で行われるのがほとんどである訳だから、多国籍自衛隊であっても、常に米軍の後方支援部隊という役割は拭えない訳で、日本の戦争でないにも係わらず戦争をする実態は、やはり、米国の属国としてあり続けることと余り変わらない訳だ。
従って、小沢氏の吹聴する自主独立も現状の日本と大して代わり映えしないものということになる。であれば、何も『小沢氏だけが日本の自主独立を実現し得る人物である』などと大そう大げさな、神懸かり的な言い回しはしない方がよい。その思考プロセスにより、植草氏の「政権交代」に懸ける民主主義運動に汚名を与える結果を招くことになる。
時代はもはや小沢氏を必要としていない。また。小沢流政治といわれる戦後の自民党的政治の体質は改善ではなく、払拭されなければならないのだ。そして、時代はその方向性を示唆し始めている。それは菅政権に対する期待として、今や歴然としたかたちで現前してきている。兎に角、ポスト小沢政治が始まっているのだ。植草氏はその方向性を冷静に受け止める必要がある。
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