3日前のワイドショー「小沢一郎 ワイドショー生出演 雄弁」の記事を読んで、偶々、番組をみていたので、「日刊ゲンダイ」には苦言となるが、この機会に小沢氏の策謀していると思われることに触れてみる。

小沢氏は立候補を明言してから確かに雄弁に語り始めた。しかし、3日朝のテレビ朝日「スーパーモーニング」においても、予算の財源問題は、ただ「財源はある」捻り出せるということだけで、「政権交代」後の財源捻出の過程に触れず、組み換え、イジルだけで捻出できると主張するばかりでその具体的な方法論には言及しなかった。

また、普天間問題にしても、前鳩山政権での「日米合意」を踏まえつつ、対等な日米交渉による沖縄県民の説得策があると言うだけでその具体的な戦術は皆目披露することなく、結局は「今はない」と発言した。

「スーパーモーニング」コメンテーターは小沢氏と話をするだけでうれし顔に終始して、当の小沢氏は、「小沢がやれば何でもできる」という剛腕神話で煙に巻く答弁に終始していた。

これは、記者クラブでの会見内容も同じだ。そして、小沢陣営の応援団長達も同じ掛け声だけで、「小沢先生がやれば解決する、日本を導いてくれる」と掛け声ばかりである。国民不在の永田町、危険なイデオロギーが蔓延する真空地帯へ走り込む幻想願望集団化になりつつある。

よく思い起こせば、小沢氏の代表選出馬の発言の諸々は、「政権交代」直後の鳩山首相の昂揚した理想論の羅列で具体的な結論をだすのに8ヶ月近くも費やしたという御慰めに終わった発言集とよく似ている。さらに、遡れば小泉郵政選挙のような活況を呈している。最近の永田町における議員先生たちの目の輝きがちがうという、何を血相変えて走りまわっているのか、私たちには理解に苦しむ。

「政権交代」がもたらした理念と価値は、見事に首相としては低能過ぎた鳩山、菅両氏によって粉々に粉砕されてしまった。そして、さらに、鳩山前首相においては、代表選の前に救いようのない、茶番、失態劇をやらかしてしまった。付ける薬がないというのはこのことだ。その罪は万死に値するなどの常套句では言い表せない汚点を社会に落としてしまった。そして、「しばらく静かにして頂くことが、民主党にとっても日本にとってもよいことだ」の菅首相発言の記憶が生々しい状況で、小沢氏が宣戦布告する絶好の道筋をつくってしまった。

ここで、覚醒しなければならないのは、他ならぬ私たちである。もはや信頼に足る議員先生などいないということを学ぶべきなのだ。しかしながら、国民の多くは、闇将軍の小沢氏の剛腕ぶりを表舞台で一度は見てみたいという野次馬的心境になっている。何と言っても本邦初公開になるのだ。誰も剛腕リーダーの雄々しい政治力を見たものがいない。だから、千両役者の出番を待ち望んでいる。

国民の願望を逆手に取った展望を少し示すだけで、株価は跳ね上がるかもしれない。それにともなう付随効果が出るかも知れない。この「かも知れない現象」に国民が集中する世相は、かなり荒廃、沈着した横這い下降にある時代背景を背負っているものだ。そして、最悪の事態は、不安の為にこの現実を忘却していることだ。

今後、日本はこの現象で常態化するという、考えたくないその不安を「かも知れない現象」が小沢待望論に結実する方向に向いている。それは、時間の経過とともに熱を帯びてくればくるほど確かな小沢教に帰依するようになる。

そして、願望の小沢政権誕生となって、これからという状況で、恐らく解散総選挙になると思われる。そして、小沢氏が終始念頭にある、大連立構想、保守二大政党制の枠組みで小沢流安定政権と突入するだろうと思われる。小沢教信者にとってもこの安定はそう居心地の悪いものではないはずだ。

但し、「私たち」にとっては、最悪のシナリオが実行されたことになり、政治との係わりを超絶した生活を己に強いることになるだろう。そうかと言って、菅政権続投であっても、何れ遅いか早いかの方向性をもつ可能性が大であることには違いない。何れにせよ、戦後は終り、新日本の誕生ということになるだろう。何処においても田舎の風景は変わらないかもしれないが、そこに漂う空気はもはや戦後ではないものだ。