文学

2008年01月16日

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「9条護憲念仏」のあまりのあほらしさが、こういう「評価」を生み出すのだろう。心してかからないと(単純に伊勢崎とか明石とかを「武力行使・軍事力を肯定する」と非難しても、必ずしも説得力を持たない、世論として形成できない。辺見庸みたいに「私は孤高を行く」で割り切れないな、私は)
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不安を背負っているガン患者に深刻な不可思議な人間論を論じるのも如何なものかと思われるが、敢えてより不条理な世界の話をする。
先ず、辺見庸だが、「私は孤高を行く」は、彼はそう生きるしかなかったということだ。

人間は、ある意味で器用に自己コントロールする感性を持ち合わせている。現実に動くことができなければ過去の肉体よりも今の精神性をより研磨してそれに頼らなくてはならないと考えるのが常道だ。
普通の場合は、「孤高に生きる」必要をほとんど考えることなく生きて当たり前だ。
同情心と自己エゴを揺れ動くのも人間の特性で大なり小なり持ち合わせた処世術だ。

私は、辺見庸もやっと真実の周辺を語り始められたと感じている。辺見庸人気は、その周辺を感じたがる大衆にある。しかし、真実そのものは大衆はいらないのだ。その香りと雰囲気が時には堪らなく欲しくなるものだ。自己の現実と香りと雰囲気の往復が修整できない軌道として生きている世界においては、真理と理念は、「世論として形成できない」宿命になっている。
2000年の民主主義への憧れの歴史があるにも関わらず、世界的には極一部でその実験を繰返しているのが現実であり、市民はソクラテスを殺した後、その過ちを悔い、銅像を建てる歴史を今日も同じく繰返しているのが「世論として形成できない」ことを証明している。

存在論のハイデッガーは当時ヒットラー政権に組み入れられることを避けるために、敢えて容認的な立場で、社会から隔絶する生き様を選んだ。従ってその存在論を全く論じられなくなった訳だが、「割り切れない」のと割り切ってはいけないと主張したサルトルの存在論は時代を表現することに成功、一時の「世論形成ができた」と評価できるが、これも一時凌ぎに過ぎない歴史評価になっている。サルトルは必至に社会に関わったその40年後の結末が哲学史の崩壊である。

大鉈に論じれば、「不条理」を受け入れ難いものとして受容したカミュは自殺を選び、「不条理」を受け入れたサルトルは社会的であることを生き様に選んだ。
この対立的思想構図を解消しようと躍り出たのが文化人類学だ。人間も生態系の一部とみることで思想から私たちを一部解放してみせた。

今の結論で言えば、「割り切れない」人生のあなたが魅力的なのであって、判然としたという、一部膠着した状態は決して望ましいことではない。
判断は常にスリリングなもので、そこから「生きる」ことのエネルギーが得られる。だから、常に大いなる矛盾を背負いながら生きていける。さらに多くの人間は、現状を闘いながら死にたいと考えている。うまくいけば、自己正当性を実践中に完結できると思い込んでいるからだろう。

魅力は不安定な眼差しにあり、スリリングな判断そのものだ。
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2007年06月26日

6月19日、朝日新聞文化面(定義集)に大江健三郎氏のエッセイが掲載されている。

タイトルは「アマチュア知識人の大切さ」である。大江氏は時として「知識人」に拘る発言を繰返している。「知識人」という言葉に一種の憧れを抱きつつ青春を過ごした歴史的世代は、戦後教育を受け、戦後の欧米文化の洗礼を被った者として少しは理解できる。しかし、1970年前後して「知識人」は綻ぶ、もしくは崩壊といった表現がつきまとっていたようにうろ覚えしている。
正面きって「知識人」という言葉を誇らしげに語る現在人も少ないのではないだろうか。

タイトルの「アマチュア知識人の大切さ」は、「専門の研究と日々の実績を重ねた後、社会の現状と進み行きに憂慮する者として、それぞれの専門から踏み出して協働する人たち(アマチュア知識人)の大切さです。」と定義づけられている。

「専門」と「アマチュア」という対比表現は、現在社会においていびつな様態を生み出しかねない響きがある。科学、工業技術の専門は止まることのない進化を継げている、これは事実である。単純に日進月歩の世界だ。しかし、こと人間社会の生活構築に関しては、技術的な予測に基づく日進月歩の世界とは反比例的、もしくは繰り返し的でしかないのが現実である。
言わんとするところは、世界、社会という人間が直接関与するところにおいては、「専門」と「アマチュア」という両義語の介在する余地がない。もしくは混在してしまっている個々人の集積という定義が妥当と見なしてもよい。

「実力と勇気をそなえた批判者」という定義も、「専門」と「アマチュア」という両義語の介在する余地がない。それは、実力も勇気も、「社会の現状と進み行きに憂慮する」個々の問題に対して個人がどれだけ真摯に対峙して実践していくかで実力と勇気がつくられるからだ。

近年、小説家の世界というものが理解できなくなってきたが、知識人、アマチュア知識人などと定義づける文学者の考えている世界への理解が遠のくばかりだ。

大江氏の決定的な希望への持続は敬服するが、しかし、「平和」ということにおいても、「9条の会」の増加数値に反比例した日本の戦争加担が深刻さを増幅させているのが現実である。憲法9条を守ることの当たり前が、日本が単独で戦争しないことを担保しているように見せかけている。
日本人の良心は、実は米軍と共であれば戦争も致し方ないという理解を前提にしつつある現実を創っている。

大江氏は「教育基本法が改訂された時、アマチュア知識人が強い声を発し始めるはず」、と書いたが、現実は、「世界」5月号の憲法発布60周年の丸谷才一氏と長谷部恭男氏の特集対談「改憲論と御霊信仰」の如し有様である。専門家による、掘り起こせばやはりこうでしかなかったというお粗末な話であった。これが、大江氏と世代的にもお仲間の現実の声である。なかなか批判者の強い声を期待する土壌にもはや日本はないと覚悟する考えになってしまう。残念ながら圧倒的希望への持続とはいかない。
大江氏の決定的希望への持続は、精神のどこからくるのだろうか。

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参考に、 大江健三郎 「アマチュア知識人の大切さ」(6月19日、朝日新聞文化欄 「定義集」)を掲載

「ロシア・ポーランド文学の研究で世界的な友人から東大教養学部の学生の、文学部へ進学する数がじり貧なので、どのような志望を抱いてフランス文学科に入ったか話してもらいたい、と依頼がありました。

 私は、高校2年で読んだ本の著者の教室へ行こう、と希望しただけなので、強いて言えば「知識人になるたに」めだった、という講演をしたのです。(記録は『すばる』8月号)、先生や友人の話に熱中して、寄せられた質問に答える時間をなくしました。

遅ればせながら、その幾つかに答えます。
1,あなたは、老年ですがどんな年金をうけていますか? と言う時事的なトピックのものから。

同業者に文化功労者や芸術院会員の、また同級生に大学教授を勤め上げて、年金を受けている人はいますが、私はありません。
長男の「心身障害者扶養年金」へ240回払い込みましたが、石原都政が制度を廃止したので私らの死後彼にも年金はあたりません。

2,大学の理学部他での専門研究を発展させて、その成果をあげ、政府・企業に『取り込まれる』立場にもなった専門家たちに、あなたは冷淡な様でしたが、この国に(世界にさえ)経済的発展をもたらしたのは、彼らではありませんか?

そういう人たちにも、また自立して陽の当たらぬ場所で力をつくしていられる専門家たちにも、私は、敬意を持っています。
国や大学が専門家の要請に資金を投ずるのにも賛成です。
私が強調したのは、エドワード・サイードの意見ですが、最先端から地道なものまで、専門の研究と日々の実績を重ねた後、社会の現状と進み行きに憂慮する者として、それぞれの専門から踏み出して協働する人たち(アマチュアとしての知識人)の大切さです。
かれらは実力と勇気をそなえた批判者で、時に政府・企業とも対立します。

私は、原爆被害者の医療に長年従事され、欧米でもよく知られている、核廃絶の理論家の老医師の方に、憲法「九条の会」の集まりで偶然お会いした感銘を忘れません。

(中略)

教育基本法が改訂された時、この勢いに乗って、政府・企業に「取り込まれる」タイプの専門家たちが(かならずしも教育の専門家でなくとも)強い声を発し始めるはず、と思いました。
そこで私は子供のための薄い本の一冊に、教育のアマチュアであることを自覚した上での、批判的な呼びかけを書き込もうと思っています。」
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2007年04月07日

40年前の記憶は殆ど定かではないと思いながら、「カフカとフェリーツェ・絆を解かれた恋人たち」(4月7日・朝日新聞)と題された記事の特集欄に目を通した。小説「城」についてのエッセイ風のものである。

14年かけて臨時雇いから秘書官主任へ昇進し、40歳で亡くなるまでの4人の恋人たちについてエッセイで紹介されている。
フェリーツェは約5年間で2度婚約を交わし、破綻を繰返した恋人である。そう言えば、年齢的に私にも婚約こそしなかったが恋愛はあった。

「城」を読んだ限りにおいては、沈着、孤独、前途がイメージできない、素朴な自己の存在を振り返らせる物語で現代版組織論の一端を担っていた。
「孤独と障壁」のイメージで、当時流行していたサルトル流孤独と符合するかたちで理解も出来たし、小説として楽しむこともできた。さらにカフカの孤独の広さと深さに自分を置き換えてみたりもした。

昇進欲と恋愛願望を考えると、カフカは私が想像した以上にエネルギッシュな男だった。孤独とは対極的な存在を体現していた。病の不安は誰にでも普遍のものだ。病を境に心の振幅が最大限に振子することは珍しいことではない。

19歳年下の恋人と同居、恋人に看取られ最期の息を引き取ったとあるが、社会の形式から開放された愛の成就を自ら体現することで、未完の小説にピリオドを打ったと思いたい。
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2007年03月27日

先ず、高齢になったろうとしみじみ我が年を思い起こすほどの年齢だろう。
もう何年も前に脳梗塞で倒れてリハビリ中だという記事を読んだ記憶が最後だった。また、野坂氏も最後だろうと思った。
記憶は定かでない、脳梗塞は2003年だと判った、4年前のことだ。4年前は過去ではなく、無かったことに等しい時空に感じている昨今だからそのように思えたのだろう。

2007年2月6日から毎日新聞朝刊で「七転び八起き」の連載を4年ぶりに再開させている、その4回目を読むことになった。相変わらずの酒談義で、芸の一つ覚えで一生飯を食っていることが改めて分かり、野坂氏の世代を想起させられた。この類で飯を食っている人間はごまんと居る。これだけ一生を通じて酒と戯れることが出来れば立派なものだ。

「ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか。二・二・ニーチェかサルトルか。みーんな悩んで大きくなった。(女性 声のみ)大きいわ、大物よ俺もお前も大物だ。」
1975年の野坂氏大ヒットのCMである。1970年は日米安保条約自動延長と赤軍の年であったと記憶する。それから5年、誰もニーチェ、サルトル、安保、赤軍のことなど覚えてはいなかったろうと思う。
記憶をたどれば私も酒を飲んでいた。

連載記事に、飲むには飲んだ酒歴だが、「あれは忘却のための薬だ。時間つぶしの小道具にすぎない。酒とは本来、大らか、平和なものだろう。」と書いている。
「大らか、平和なもの」、それはともかくとして、「時間つぶしの小道具にすぎない」ことだけは、私にとっては事実であった。
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2005年10月16日

先日、瀬戸内氏の近況について報告文を出しました。本日16日の毎日新聞「時代の風」欄に氏の随想「平和の夢のあとに想う」が掲載されています。前回に続き何かの縁だと思います。氏の心境が語られている随想の紹介と、私の致知するところを書いてみました。

 久々に氏が得度の式をあげた平泉中尊寺に詣った時の随想です。話の基盤は、清原清衡の政治目的、「平和と文化」を求めた中尊寺建立の背景が述べられています。そして、テレビで御馴染みの義経伝説の為に、平和は保たれなかった、というお話です。そして、平和を守ることがいかに至難の業かと思いあぐねている時の悟りが、『人間の命と、平和のもろさを、はかないと言い捨てにしきれない想いで、私はひっそりと立ちつくしていた。』で終っています。中尊寺での氏の溜息に、私は、戦後60年の日本を憂い、平和を守ることが難しくても、それを願う心は永遠にあり続けると読みました。さらに、現在の日本はもはや平和でないことが語られていると理解しました。

私は近年、憲法前文第2項に定められている「平和的生存権」が侵されていると日々痛切に感じています。だから、9条を守ることを願うだけでなない、運動が条文化しない生き在を模索することが求められていると考えています。
 以上が瀬戸内氏の随想についての私心です。

                 平和の声・通信 NO203(05.10.16)
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2005年01月07日

4年12月28日、スーザン・ソンタグ氏死去。米思想界を代表する知識人・作家として報じられた。話題に事欠かぬソンタグ氏であったようだが、私自身は米思想界そのものに興味がなかった為、疎遠であった。しかし、現在の米、ブッシュ帝国の暴走を目撃して、米国に「正義の国」を編曲したその背景、イラク侵略戦争から捏造された「正義の戦争」が日本をエイズ化した根本に、99年NATOのコソボ空爆を支持したソンタグ氏の思想的発想が脳裏に浮かんだ。

朝日新聞が企画した大江健三郎氏との往復書簡による平和談義が思い起こされる。手玉に取るソンタグ論調に大江氏は終始にこやかな応答であった。その書簡内容、ソンタグ論調から米国の米国人の危険な発想を感じ取ったのは私一人ではなかった筈である。確信ではなかったものが事実証拠を瞼に極印された衝撃と自信に帰属した絶望を再確認する結果となったソンタグ発言は、コソボ、アフガニスタン、イラク空爆への誘いに他ならなかった。ソンタグ氏は敢えて5年前に「米国人の良心」を代弁していたのである。否、アングロサクソンの血とでも言うべきか。

「懼れ・心配がある」根拠が先制攻撃を可能にする「正義の戦争」をソンタグ氏が発言したことによって、ブッシュ大統領とイラク戦争支持米国人は米国を体現することに何ら躊躇いを持つことなく、自信に満ちた強い笑顔を我がものにした。さらに深刻な事態は日本を「正義の戦争」目的で米国汚染を蔓延させたことである。加担している日本政府と国民を欺きアングロサクソン化した大罪は、日本文化ではもはや覆すことが不可能な次元に日本を追いやってしまった。その根本要因は日米同盟である。日米同盟が日本人を模造品にしてしまった。ソンタグ氏の訃報を知り改めて私にとって米国は遠い国であることを知らされた。それを決定付けたのは米国の「良心」とやらの理解不可能な「知の領域」である。
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2003年11月06日

ヘンリー・ミラー「わが読書」にランボー論がある。
 
66年はマルクス主義も健在、華やかなりしころと記憶している。
一橋の高島善哉、横浜国大の長洲、宮崎、名古屋大の水田洋、そして関西は和歌山大学経済学部、各先生方が来ていたとよく聞いたものである。死語になってしまった「資本論研究会」がいたるところにあった時代でもある。
 
70年、私は高田の馬場に下宿していた。新宿のデモに時たま最後尾で追走したことが思い起こされる。
私は、ただただ不安を矛盾を生きていた。

66年、私はランボーのように生きると密かに自分に言い聞かせていた。そして、75年に全ての自分をダンボールに封印して金儲けの世界へ飛び立った。
芥川賞の選考委員長埴谷雄高が村上龍に電話を入れて銀座のバーで祝賀を行った年でもある。

95年、忘れていた事件が起こる。ランボーの片足切断が、よもや自分の体を切り刻むことで体現するとは想像せぬ因果として到来した。酒池肉林の結果は1年半に及ぶ入院生活を強いられ再起不能と噂された。

折りしも阪神・淡路大震災から2ヵ月後のことであった。この時、自己が死ぬという経験を目の当りにした。もう一度自己を知ろうと手探りを始めていた矢先のことである。20年前のランボー論が脳裏を掠めながら酒を飲んでいた時だ。

遅くはない、生きることは、今ある自己を表現するその一言に尽きる。表現は芸術である。常に自己を超える芸術を体現しながら矛盾、理不尽に如何に立ち向かうか、これは芸術の世界である。
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